すみやきの小説置場

小説を書き始めた18歳から三十路の今に至るまでのすみやきの小説置場

やっぱり僕はモテモテにはなれない。

     1

「死にたい」が最近の口癖だった。
 口癖と言っても特定の誰かに伝えたり、叫んだり、しゃべったりするわけではない。
 ただ一人きりで呟くだけに過ぎない。「あー、死にたい」って。
 朝起きても、朝ご飯を食べても、登校中でも、授業中でも、昼休み中でも、掃除の時間でも、下校中でも、夕食中でも、風呂中でも、寝る前でも、ふと口から「死にたい」の四文字がこぼれてきそうになる。
 だけど死にたいは死にたいのだが、自殺をしたいわけじゃない。
 自分でも面倒くさいと思うのだが、とにかく自殺はしたくない。なぜなら怖いから。
 自殺は怖い。
リストカットも、首つりも、飛び降りも、樹海も、毒物も、みんな怖い。だから自殺はしない。たぶんしない。というか絶対しない。
 でも僕の口からは「死にたい」の言葉が止まらない。
どれだけ自分勝手でめちゃくちゃなことを言ってるんだ、そんなツッコミをされてもいいわけすら思いつかない。
おっしゃる通りとしか言いようがない。でも僕「死にたい」とひたすら呟く。
 そもそも自殺はどうやったって他人に迷惑がかかる。
 電車に飛び込んだところで駅員さんや乗客のみなさんに迷惑がかかる、それにものすごいお金をJRに払わなければならない、よって家族にも迷惑がかかる。
 リストカットや首つりや毒物にしても、僕の死体を片付ける人に迷惑がかかる。誰も好んで死体を触ろうとは思わないだろう。仕事だと割り切ったとしてもその人への心理的ダメージはあるだろう。そんなダメージを与えては申し訳ない。
 樹海に入る行為自体はなんとなく他人にかかる迷惑度合いは低いような気がするが、実際問題としてそこまで行く交通費がバイトも何もしていない僕には工面ができない。
 だれか僕に交通費をぽんっとくれるような人はいないもんだろうか。たぶんいない。きっといない。絶対いない。
 どっちにしろ僕は自殺はできないらしい。っていうかしたくない。
 でも僕は「死にたい」の言葉を忘れない。
 そして、そこまであせって死ぬほどいやなことがあるわけではない。
 別にいじめを受けているわけでもないし、莫大な借金をしているわけでもない。
 でも僕の「死にたい」という言葉は留まることを知らない。
 どうやら僕が今退屈なことが大きいようだ。
言っては何だが、僕は県ではそれなりに上位の進学校に通っている。毎年、東大や京大に多くの合格者が出ていて、現に僕のクラスの多くは難関大学を狙っている。
 そんなやつが多いせいかどうかわからないが、僕のいる教室はとにかく活気がない。
 どうやら僕のクラスは「他人」という存在に興味がないらしく、自分の世界に入って机にかじりついているやつが多い気がする。
 そして僕の学校が男子校だということもクラスの活気のなさに拍車をかけている気がする。 もしかしたら女子という存在がいたらもっとこの学校自体の雰囲気も変わってくるのかもしれない。
 だけどこの学校にいる異性は家庭科のおばちゃん先生と現国のおばあちゃん先生だけだ。恋愛に発展する可能性は全くない。まだ宝くじで一等をあてるほうが可能性がある。
 僕は帰宅後の部屋でも「死にたい」を連呼する。
 あまり大きな声で言うと家族に聞こえてしまうので小さい声で。
 さらに念には念をいれて布団に丸まってつぶやく。
「死にたい死にたい死にたい死にたい」
 一〇回以上繰り返すともともと何の言葉なのかを忘れている。
 教室ではほとんど何も発していないので僕は一日のうちに発している言葉のほとんどが「死にたい」なのである。
 そんなことをしているから、ふいにこの「死にたい」を発してしまいそうになるから困る。
 通学中のバスの中、授業中の教室、掃除中の視聴覚教室。向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこで言えるはずもないのに。
 そんな場所で発してしまったら即、親と担任と僕との楽しい三者面談が執行されてしまうことうけあいである。
 いくら楽しい三者面談でも親を面倒な目にあわせたくない。
 だからそんな時に僕は小さく「しっ」と呟く。「死にたい」の「し」だけ発音しているわけだ。
「しっしっしっ」
 そんなことを呟いている僕はクラスメイトから見たら危険な存在でしかないだろう。
もしも僕がクラスメイトの側だったら絶対僕みたいなやつには近づかない。

 
     ◇

 今日も今日とて僕の「死にたい」ライフは絶好調だった。
 夏の始まりのむしむしした暑さはさらに「死にたい」に拍車をかけている。
「しっしっしっ」
 僕はハンカチで汗を拭った。ハンカチ特有の布臭さが漂う。
しっしっしっ。
 もしも僕の中だけで流行語大賞を決めるとしたら今年もぶっちぎりで「死にたい」が受賞するだろう。
 他の有力候補である「眠い」「だるい」「かったるい」「食べるラー油」に大差をつけての流行語大賞受賞である。もはや殿堂入りも時間の問題だ。
やっぱり、この「死にたい」を発散しなければやっていられない。毎日自分の部屋だけで発散するのはもはや限界な気がしてきた。
「死にたい」
 ぼそっと呟いてみる。
今は絶賛帰宅中。そばには誰もいない。
とてもいい感じだった。
「死にたい死にたい死にたい死にたい」
 うん。ものすごく絶好調。中畑清に負けず劣らないくらいに絶好調だ。申し分ない。
「しに――」
 と、絶好調なのはここまでのようだった。僕はどうやら調子に乗っていたらしい。
前方に女子高生の集団を発見してしまった。
 どうしよう。
僕はとりあえず道を曲がってみる。すると人が一人通れるくらいの路地裏に出た。
 すると一匹の黒猫が路地裏で休んでいるのが目に入る。
 なんだか、魔女と一緒にいるのが似合うような真っ黒な猫で、見るからに野良猫なのだが、なぜだかものすごく上品な印象を受ける。
 ――なんでこんなところに来てるの?
 黒猫がそんな顔をしてこっちを見ている。
「隠れてるんだよ」
 と僕が勝手に答えるも黒猫は知らん顔。
 ――ふーん
 と興味なさ気な表情を浮かべている。
 声を潜めて待っていると先ほどの女子高生の集団が見えた。
 指定の赤茶色の鞄に清楚な紺色のプリーツスカート、彼女達は隣の女子校の生徒達だ。
 路地裏に隠れている僕に目もくれずに彼女達は通り過ぎて行く。
 ――行くの?
 黒猫がそんな顔をしてこちらを見るので「うん、行く」と勝手に答えて路地裏を後にする。
 とりあえず落ち着こう。クールダウンだ。
僕はいままで歩いていた駅までまっすぐ続く通学路を無視して寄り道をすることにした。

 

     ◇

『クリーンタウン』は、この寂れた地方都市にそびえ立つこれまた寂れたショッピングセンターである。
 建てられた当時は賑わっていたらしい。しかし人口が減り、街全体の活気が失われていくのと同時に出店数も減っていってしまっている。今ではぽつんぽつんとテナント募集の看板が目立つショッピングセンターになってしまった。昔は家族連れで溢れていたらしいこの建物も、今ではここ周辺にある高校に通う生徒達のたまり場と化している。
 ここ周辺の学校と言っても僕の通う男子校とその近くにある女子校の二校だけ。両方とも進学校というのもあって、このショッピングセンター内の治安自体は決して悪くない。
 近くに市立の図書館や進学塾が存在するせいで、勉強の気分転換に来る生徒をよく見かける。
高校生でなんとか成り立っている、それがこの寂れたショッピングセンターの現状だ。
 そんな『クリーンタウン』の一階にぽつんと焼き鳥屋がある。
 焼き鳥屋と言っても比較的見かける、総菜屋に毛が生えたようなもので、作りおきの焼き鳥や揚げ物を売っているような店だ。
 僕はいつもこの店で五十円の手羽先揚げを一つ買う。
 だが、今日はコロッケが半額で売られていた。なんだかそれが無性に寂しそうに売られているので、勢いで買ってしまう。別にコロッケが好きなわけでもないのに。
にこやかに笑うおばさんに渡された手羽先揚げもコロッケもお世辞にもできたての熱々とは言えなかったが、これはこれでよしとする。こんなことぐらいで絶望していたら僕は何回「死にたい」を連呼すればいいんだろうか。

 自動販売機でダイエットコーラを買うと自販機近くのベンチに腰を下ろすことにした。
中合わせに配置されているもう一つのベンチには女の子が一人座っている。さっきの集団と同じ制服を着ていた。隣の女子校の生徒のようだ。
 もしも女子校の生徒が集団で座っていようものならすぐさま退散するのが僕の常である。
 でも、一人ぐらいなら別に陰口を言われるわけでも指をさされてくすくす笑われることもないだろう。
 僕は座りつつ、ペットボトルの蓋を開けた。そして口に思いっきりダイエットコーラをぶつけてやる。強い炭酸が一気に喉に到達して僕の喉を痛めつける。
 旨い、かどうかはよくわからない。ただ快感だった。
もしかしたら僕はエスとエムで言ったらエム側の人間なのかもしれない。だけどそんな適性を知ったところでこれからの人生に何の役に立つのだろうか。
 そんな感じでいつも通り絶望が頭の中をぐるぐるしだした。
 僕は思わず、口に出してしまったのだ。
もう後悔しても遅い。
後ろの女子に聞かれてしまうことは確定だった。
きっと彼女は僕のことを気味悪がるに違いない。けどそんなことは気にしない。だってたぶん会うことはないんだから。
 そして、いつものフレーズが僕の口からこぼれた。

「「……死にたいっ」」

……は? 
 一瞬何が起こったのかわからなかった。ただ僕は「死にたい」と口に出したはずなのだ。
 明らかに誰かの声が重なった。
僕は中学校の頃の合唱コンクールを思い出した。男子のテノールとバス、女子のソプラノとアルトが綺麗に合わさったような、そんな感覚を今味わった。
 僕の「死にたい」と誰かの「死にたい」が合わさった。それだけは理解できた。
 その「誰か」とは誰か。
僕は周りを見渡す。特にそれらしき人は見当たらない。
 ただ後ろを除いては――。
 その相手と僕がお互い後ろを振り返ったのはほぼ同時だった。
 今にもするりと風になびきそうなストレートの長髪はほんのり茶色がかっていた。
うさぎのように真っ白な肌、腕にはその白い肌には不似合いな派手な色のミサンガが付けられている。
 もしかして僕は幻聴が聞こえるようになったのだろうか。
こんないかにも学校を楽しんでいるような、そして友達に囲まれているような女の子が「死にたい」なんて口に出すはずがない。
 確か、四月の健康診断での聴力検査は異常がなかったはずだ。もしかしたら聴力検査にやってきた耳鼻科の先生はヤブ医者なのかもしれない。そうなったらちゃんとした耳鼻科に行かなくちゃ。
 どっちにしろ僕が「死にたい」と言ってしまったことを聞かれてしまったことには違いない。
 急いでこの場から立ち去らなければ。
どこへ行けばいいかはわからないけど。とにかく離れよう。
「あ、あの!」
 僕がベンチから腰を浮かせた時、またしても後ろから声がした。幻聴もここまで来るとそうとう重傷なんじゃないだろうか。近くの総合病院でなんとかなるのかしら。
「あの待ってください」
「えっと、その、僕に言ってます?」
「はい、えっと、他に誰もいないし」
 どうやらこれは彼女の口の動きに合わせて聞こえる幻聴らしい。ものすごくやっかいだ。この県の大学付属病院でなんとかなるのかしら。
「聞こえちゃいましたよね」
 なんだか不思議な感じがした。
活発そうな外見とは違って彼女の口調は丁寧でそれでいて優しかった。
もしかしたらこれは幻聴じゃないのかもしれない。僕の頭で作った言葉にしてはあまりにも丁寧すぎる。
「何を?」
 僕がそう聞くと彼女は手を腰あたりで組み合わせてもじもじし始めた。
そして恥ずかしそうに下を向く。ますます派手な色のミサンガの違和感が増してきている。

「そ、その、あ、あなたと同じ言葉を言ったんです、『死にたい』って」

 どうやら幻聴じゃなさそうだ。
ヤブ医者呼ばわりしてしまった耳鼻科の先生には今度会ったら頭がすり減るぐらい謝りたい。そう思った。

 


     ◇

『クリーンタウン』には四百台もの車が駐車が可能な立体駐車場が完備されている。こういった巨大な駐車場は別に珍しいものではない。
日本一の車の保有台数を持つこの県にはこういった巨大駐車場は少なくないのである。
 今、僕はこの立体駐車場の屋上にいた。
平日でしかも、巨大な立体駐車場の一番上なんかに止める車は少ないらしく、五十台近く止めるスペースがあるこの屋上には車が二台しか止まっていなかった。
しかも長い間放置されているらしく、移動を促す黄ばんだ警告書がワイパーに挟まれている。
 そんな誰もいない空間に僕は立っていた。
 一人の女の子と一緒に――だ。
 屋上の風に吹かれて彼女の茶色い髪がなびく。
立体駐車場の屋上という立地だけあって、この街を一望できた。といっても見えるのは少しばかり広がっている住宅街とその後方に広がる山々の緑色だけだ。
 この街に海の一つでも見えればもうちょっと絵になったかもしれないが、この県自体に海が存在しないのでそこはしょうがない。
「あの」
「はい?」
 僕が問いかけると彼女は僕の目をじっと見つめてくる。人の目を見て話すのが苦手な僕はすっと視線を下に向ける。
なんだか顔が熱くなってる気がする。さぞ変な男に見えてるだろう。
「あの、なんでこんな場所に僕を連れてきたんですか」

 クリーンタウンの一階ベンチでお互いを見合わせた僕らはしばらく何も言えずに座っていた。すると彼女が「ついてきてください」と一言つぶやいたのだ。
 僕は、黙ってついていくしか選択肢がなかった。なぜならその時は何も考えられなかったから。全ての思考が停止してしまったように感じられた。
 僕をとある場所に案内した。それがこの屋上というわけだ。
「えっと、お願いがあるんです」
「お願い?」

「私のこと忘れて欲しいんです!」

 彼女はこれでもかというほど僕に向かって頭を下げてきた。
 もはや何が何だかわからない。
「あの、ごめんなさい。僕、あの、状況が、ちょっと」
 明らかに日本語になっていないということは自分が一番わかっていた。
「私のこと、ベンチで座りながら『死にたい』なんて言う女は最初から見なかったことにしてください。そうじゃないと、私」
「ごめんなさい。もっと話がよくわからなくなってます」
 なんだか謝ってばかりだ。
「ごめんなさい。わけがわからないとは思うんですが、とにかく私のことは忘れて欲しいんです。この通りです」
 だんだん女の子は早口になってきてる。そしてさらに女の子は深々と頭を下げてきた。
「と、とりあえず落ち着きましょう。そうだ。どこかに座って話しませんか」
「は、はい」
 日頃人と話していない僕がよくここまでしゃべれるものだと思う。って自分自身で感心してどうする。
 だけど自分で発した言葉に僕はさっそく後悔することになってしまった。
 思わず「座りましょう」と言ってしまったが、ここは駐車場なわけで。ベンチなんて気の利いたものはないわけで。
「あ、私ここでいいです」
 目を泳がせながらおどおどしている僕を察したのか彼女は駐車場の車止めのブロックに腰を下ろした。僕も慌ててその隣のブロックに腰を下ろす。座った瞬間にひやっとした感触が下半身に広がった。彼女もきっと同じだったのかもしれない。

 言葉が出てこなかった。
普段人としゃべってないせいで頭の中からボキャブラリーが抜けてしまっているようだ。
 焦ってきた僕はおもむろにリュックサックを開くと一階で買った焼き鳥屋のビニール袋が出てきた。中には買ったまま封を開けていない紙袋がある。
「あの! 食べませんか」
 思わず紙袋を差し出してから気づいた。僕は一体何をやってるんだろう。
 今日会ったばかりの女の子と立体駐車場の屋上に来て、なんで僕は焼き鳥屋の袋を差し出してるんだ。
  馬鹿じゃないか? アホじゃないか? マヌケじゃないか? 
とりあえず考えられる罵声を自分自身に浴びせてみる。
 何でよりによって揚げ物を差し出すんだよ。しかも違う種類一つずつのやつを。もう僕は駄目かもしれない。いろんな意味で。
「あ、はい。いただきます」
「そうですよね。ごめんなさい。こんな僕がこんなもの差し出して! 断られても当然です……え?」
「あ、ごめんなさい! 私図々しくって、あの」
「ごめんなさい。いえ、そういうわけじゃなくて! いや、あの本当にこんなものでよかったら」
 僕たちは今までどれくらい「ごめんなさい」を言ってるんだろう。そして今日これから何回「ごめんなさい」を言うんだろう。そう思いながら僕は紙袋を開ける。

 


     ◇

 生暖かいコロッケというのも悪くはないな。なんてことを実感する余裕は僕にはなかった。とりあえず僕は淡々とコロッケを口に押し込んでいく。
 その横で女の子が手羽先をむしゃむしゃやっていた。彼女の手と唇は油でてかてかしている。
僕はそんな彼女の唇に思わず見とれてしまっていた。
「あ、すいません。なんか私食べるのに夢中で」
 彼女の言動は第一印象とは異なるものだった。彼女の髪色や制服の着こなしや腕のミサンガからは想像できないような丁寧な口調で僕に話しかけてくる。
キツネに化かされているんじゃないか、なんてことを思う。けどこんなキツネに化かされるのだったら悪くないな、なんてことも思ってしまう。
「あの、その、ところで私のことを忘れてくれる約束のことなんですけど」
 彼女が両手で手羽先を持っている姿はまるで小動物みたいで可愛かった。
 ああ、そういえばそんな約束してたっけ。いや、別に約束はしてなかった気がする。
 忘れろといわれても彼女を忘れろというほうが無理がある気がする。
手羽先の油リップクリームで光っている彼女の唇をたぶん僕は一生忘れない自信がある。それを忘れろと彼女は言ってるのだ。
「私なんて見なかったことにしてください。それだけでいいんです」
「それはどうして」
「うんと、その、あの、どうしても! です!」
 必死な彼女は未だに手羽先をかじっている。もしかしたら前世は本当に小動物だったのかもしれない。
 けどなんで彼女がこんなことを言い出すのか。僕にはなんとなくわかる気がした。
「えっともしかして『死にたい』って言ってたのが聞かれたくなかったとか?」
「なんでわかるんですか」
 本当にびっくりしたような顔でこっちを見る。うっかり手羽先を離してしまいそうだ。 
「いや、なんとなく、なんだけど」
 まあ、それぐらいしか心当たりがないし。
「困るんです。もしもあなたが誰かに私のことを話されると、そうしたら私、とても困ります。だから本当にお願いです! 私のことを忘れてください」
 手羽先を持ちながらぺこぺこと頭を下げている様子を見てなんだか可愛いと思ってしまう。
 だけどこんな彼女の姿を見ているとなんだか居たたまれなくなってしまった。これはどうにかしないと。
 僕はゆっくりと口を開いた。
「いや、あの大丈夫です。僕、人と話すことなんてないんで!」
 断言できる。僕は今世界で一番かっこ悪いことを宣言したということを!
「え、え?」
 彼女は目をまんまるにしてこっちを見ている。
そりゃそうだろう。目の前に立っている男がいきなり友達がいない宣言をしているのだから。
「いやあ! 本当に僕は友達がいないんですよ! 朝にある出席の点呼から一日も声を出さないとかざらですし! もはやクラスメイトなんて気を使って僕に話しかけてこないですし! もう僕が石ころ帽子かぶってるのか! ってくらい。僕が今誇れるのは存在感がないことぐらいなもんですよ! 今日も誰とも話さずに学校を終えてここまで来たってわけですよ。本当に参りましたよあははは!」
 もうヤケだった。自分でも何がなんだかわからない。
そうだ。このまま走り去ってしまおう。もう金輪際、このクリーンタウンには近づかないようにしよう。そして言われた通りこの女の子のことは忘れよう。
「だから僕が誰かにあなたのことを話すなんてありえないんですよ。だって話す相手がいないんですもん。ですから安心してください」
「あの」
「びっくりするでしょ。世の中にはこんな変な人種がいるんですよ。驚かれるのも無理はないですよ。だから僕は常日頃から死にたいと思っているんです」
「いや、その私、その」
「じゃあ、そういうわけで僕はこれで! たぶんこれから先会うこともないでしょうけど!」
「待ってください!」
「大丈夫です。あなたの言うとおり私はあなたのこと忘れるつもりですから」
 嘘だった。
こんなこと忘れるはずがない。少しの間とは言え女の子と二人きりでいたなんてこれから先あるはずがない。
この思い出は墓場まで持って行ってもいいですか? そんなことを思いながら僕は彼女から離れる。
「そうじゃないんです! 同じなんです!」
 思わず振り返ってしまった。彼女が顔を赤く染めながらこちらを見ているのがわかる。
「同じって」
「私もなんです。今日誰とも話してないんです」
「じゃあ『死にたい』って」
「その……全く同じ理由です」
 何を言っていいかわからなかった。
「あの」
 彼女がゆっくりと口を開く。
「座りませんか」
「は、はい」
 さっきまで座っていたブロックに再び腰を下ろす。さきほどど違ってかすかにブロックに残るぬくもりが自分のものであるという事実がますます僕を死にたくさせる。

 

     ◇

 彼女の名前は川田友恵と言うらしい。
「友達に恵まれるって書いて、友恵」
「それは言わないでください」
 どうやら禁句だったようだった。彼女はもじもじと体を小刻みに動かしている。
「全く迷惑な話です。親は友達に恵まれるようにってこの名前をつけたんでしょうけど、実際の私には友達がいないんですから」
 友恵さんは制服を見てわかる通りに隣の女子高に通う高校一年生だった。
学年と年齢が僕と一緒だということに驚愕する。僕よりも、そして僕の同級生に比べてもはるかに彼女は大人らしく見えたからだ。
 そしてまだ僕は彼女の様子を見ても信じることができない。彼女もまた友達がいないなんて。
高校デビューみたいなものに憧れてたんです。中学生時代は地味な外見で内気な性格という悪循環だったのでクラスメイトは離れていく一方でしたから。思い切って髪を茶色くして、少し遊んでるイメージの外見にしたんですよ」
 手元の派手なミサンガもその一環というわけか。
「スカートとかも普通より短くしたりして」
 そう聞いて思わずスカートに目が行ってしまいそうになってしまう。とりあえず理性で抑えたが、これから先このスカートを見たい欲望と理性との戦いは制限時間なしの一本勝負になりそうだ。
 それにしてもこんなに流暢に話をしている彼女になんで友達がいないのだろうか。
「あ、すいません。なんだか私が一方的にしゃべっちゃって。久しぶりにしゃべれているから嬉しくって。それにすごく話しやすくって、えっと」
「友良です。西村友良。良い友達に巡り会えるようにって親が勝手に名付けました。そして僕に友達がいるかどうかはお察しの通りです」
「あ、なんだか似てますね。私達」
「そうですね」

 それっきり僕らは何も話さなかった。別に言葉に詰まったわけではない。
ただ二人きりで過ごしているこの時間、そしてこの空間がとても心地がよかった。ただそれだけ。
「やっぱり死にたいんですか?」
 彼女は首をひょこっと小さくかしげる。そんな小さな動作の一つ一つが僕にとっては可愛らしく思えた。
 けどこれにはどう答えたものだろう。
確かに二人で「死にたい」とつぶやいてしまった以上向こうが僕のことを自殺志願者だと思っても決して可笑しくはない。
 だけど僕にとって「死にたい」はもう一種の口癖みたいなもので。
けどこのことを上手く彼女に伝えられるのだろうか。すると彼女の方から口を開き始めた。
「私は、その、はっきり言って死にたくはないんです。こんな状況から脱したい、ここからいなくなっちゃいたい。もしもこれがゲームだったらリセットボタンを押しちゃいたい。けど今の気持ちを表すことができなくて、それで私、死にたいなんて言っちゃって」
 ゆっくりだがしっかりした言葉だと思った。その口調がより彼女を大人に見せる。
それと同時に彼女の言っていることが自分にそのまま当てはまるということに驚く。自分の心の中を読まれてしまったかのようだ。
「こんな言葉を気軽に言っちゃいけないことぐらいわかってます。だけど気づいたら言っちゃってるっていうか、その、あれ? 何で私こんなことまで言っちゃってるんだろ。えっと、あ、久々に家族以外の人と会話できたのが、その、なんだか嬉しくって。私、普段はこんなんじゃ」
「わかります」
 一言僕がつぶやいただけで彼女は目を丸くした。
顔に出やすいんだな、なんて思うと、なんだか無性に親近感がわいてきてしまう。初めて会ったはずなのにこんなに親近感を覚えるなんて。
「僕も一緒だから。今、言ってくれた言葉がそのまま当てはまりすぎて僕からは何も言う必要がないくらい」
 するすると言葉が口から出ていく。こんな経験は初めてだった。もしかしたら彼女にとっても同じ気持ちなのかも知れない。
「もしかしなくても本当に私達って似てるのかもしれないですね」
「そうですね」
 そう言って僕らは笑った。
笑うなんてものすごく久しぶりだ。ただ笑っているだけなのに今、自分がものすごく人間らしい生活をしているように思えてくる。なんだか不思議な感じだ。
 心地よい風が僕らの頬を掠める。気持ちいい。そう思った。
「ここはいい場所ですね」
「そうですね。私も初めて来たんですけど」
 僕が明らかに不思議そうな顔で彼女のことを見ていたのだろう。彼女は優しい笑みを浮かべて話を始める。
「とにかく、二人きりにならなきゃって。私のこと忘れてもらわなきゃって。そう思ったらふとこの場所が思いついたんです」
 よいしょっ、と小さく呟くと彼女はブロックに乗っかりバランスをとる。ここに連れてこられたばかりの彼女からは想像がつかないほどの無邪気さが感じられた。
「本当にどうしようかと思ってたんです。今、全くしゃべる人がいないのに。もし私が『死にたい』なんて一人でつぶやいてる女だって他の人にばれたら――なんて。結局、忘れてもらう必要はなさそうですけどね」
「そうですね」
 そう言ってまた二人で笑った。
「こんなにいい景色のところが見つかって、なんだかとてもラッキーな感じです」
 彼女はブロックに乗って背伸びをしながら遠くの山々を見つめている。
「私、またちょくちょくここに来ることにします。友達がいなくてありあまった時間をここでつぶそうかなーって思ってます」
 なんでそんな寂しいことを明るく言ってのけるのだろうか。彼女の華奢な体から強さみたいなものを感じ取ることができる気がした。
「あの、僕も来ていいですか。僕も暇なんです。同じく友達がいないから」
 もはや自分が何を言っているかなんてわからなかった。今、自分の体が何者かに乗っ取られてる、そんな気がした。
普段の僕だったら絶対にこんなこと言うはずがない。
もしかしたら、僕がちゃんと話ができるパワーみたいなものを彼女が与えてくれているんだろうな、なんて思う。
 彼女はこくん、と小さく頷いた。

 僕はその日、「死にたい」を口に出すことはなかった。
 帰った後も、夕ご飯を食べている時も、風呂に入っている時も。
 また屋上に行けばあの人に会えるだろうか。そんなことを思うといつも見慣れた部屋も寝慣れた布団もなんだか楽しいものに見えてくるのだ。
 彼女は魔法使いかもな、そんなことを思いながらその日は眠った。  
  

     2

 僕は映画の登場人物なんじゃないか、そんなことを考える時がある。
 僕の行動の一部始終はどこかの映画館のスクリーンに映されていて、大勢の観客が僕のことを見ているのである。
 そして、僕に接する人間は全て台本通りにものをしゃべり、行動をしている。
 今、こうして学校からの帰り道ですれ違う主婦やサラリーマンは実はみんなエキストラで、僕とすれ違う、という演技が終わるとみんな舞台裏にはけていく。
 路地裏で、また黒猫に出会った。前と同じ黒猫だろう。
 今、この前と同じ不思議そうな顔で僕のことを見ている黒猫も立派なエキストラの一員なのだ。動物タレントの事務所か何かに所属しているのかもしれない。
 ――何わけのわかんないこと考えてるの? 暇なの?
 黒猫はそんな顔でこちらを見た。そんな黒猫に対して僕は仕草で伝えようとする。
「見てわからないかな。そりゃあ暇さ」
 そもそもなんで、こんな見るからに暇な妄想をしているか。それは僕が文字通り暇だからである。
 なぜ暇なのか。それは友達がいないからである。達とゲーセンに行くこともファーストフードに行くこともCDショップを覗くこともない、放課後の全ての時間をフルに使えるのである。
 と、ここまでが友達がいないことをプラスに考えられる限界である。
 そんな友達がいない僕はいつもこの帰り道は死にたさ一杯で歩いているのだが、今日はちょっと違う。
 ――なんだか、この前と違って今日は機嫌が良さそうだな
 黒猫は立ち止まって僕を見る。
「気のせいじゃない? 僕はいつも上機嫌だぜ?」
 僕は文房具屋の店先で横になった黒猫に別れを告げて、帰り道を急いだ。

 


     ◇
 
 やはり、彼女は屋上に来ていた。
ブロックに腰をかけ、ぼーっと景色を見つめている。彼女も僕主演の映画の台本通りここにいるのだろうか。そんなことを考えながら僕は彼女に近づく。
「こんにちは」
 僕が声をかけると同時に彼女は僕の方を向く。
 一瞬目が合いそうになって僕は必死に目をそらせる。いくら彼女が話しやすいとはいえ、まだ持ち前の人見知りは健在のご様子。
「こんにちはー」
 午後三時、「こんにちは」か「こんばんは」かで微妙に悩む時間帯ではあるが、僕らは「こんにちは」と挨拶した。
「何してたんですか」
 ちょっと意地悪な質問をしちゃったかな、と言葉を発した後に思う。だって彼女がぼーっと山々を眺めていたのを僕は見ていたのに――。
「待ってたんです」
 どきっとする。
「誰をです?」
「あなたです。えっと」
「トモ、でいいです。親から僕はそう呼ばれているんで」
「あ、偶然ですね。私もトモって呼ばれてるんです。えっと、主に親から」
 気が合いますね。それだけ言ってまた僕らは笑った。
「じゃあ、僕はあなたをトモさんって呼びます」
「私も、そのあなたをトモくんってお呼びします」
「なんかおかしいですね。トモさん」
「あは、ですね。トモくん」
 また笑いあった。僕らの笑いの壺のふたはきっと緩みっぱなしなのだろう。

 


     ◇

「『ぼっち』って言葉知ってます?」
 僕が買ってきた手羽先を二人で食べている時だった。ふと彼女が口を開いたのだ。
「ううん、知らない……けどなんとなくわかる気がします」
「『ひとりぼっち』を短くして『ぼっち』。友達がいなくて一人で行動している――ちょうど私みたいな」
「ちょうど僕みたいな?」
「あ、ですね」
 トモさんの笑顔は本当に優しい。悪い要素がどこにも見当たらなかった。
「主にネットとかでよく使われてる言葉なんですけど」
「どうりで知らないはずです。僕、コンピューターは全然だめなんです」
「詳しそうなのに」
「ですよね。だいたい眼鏡かけてるとメカに詳しそうな感じですけど、そうでもないんです」
「よかったら教えてあげますよ」
「機会があったらぜひ」
 本来、こういった約束は大概社交辞令だが、彼女の笑顔に嘘はない気がした。
もしも僕が本当にコンピューターを教えてくれ、と言ったら今と同じ笑顔を浮かべて丁寧に教えてくれそうな気がした。
「それでその『ぼっち』がどうしたんです?」
「え? あ、そうそう。私はずっと『ぼっち』なんです。学校や家でも」
 トモさんがずっと『ぼっち』なら僕も同じく『ぼっち』には違いないな、って思った。
「だけど、少しの時間だけど『ぼっち』じゃなくなる時間があるんです」
「それはいつ?」
「あの、今……です」
 一瞬、トモさんと目が合った。無垢な目だな、と思う。
偽りとか嘘とかそんな負の要素が彼女の目には一切なかった。おもわず吸い込まれてしまいそうになる。僕はがんばって彼女から目をそらす。
 トモさんも人の目を見るのは苦手なようで、少し恥ずかしそうにうつむいてしまっている。
「じゃあ、今は僕も『ぼっち』じゃないってことですか」
「です。けどまた帰ると『ぼっち』に戻ってしまうんです。『ぼっち』じゃない状態から『ぼっち』に戻る瞬間が寂しくてしょうがないんです。困ってしまうわけです」
「それは困りますね」
「ですね」
 トモさんは本当に上手に手羽先を食べた。骨の周りは洗ったかのように綺麗な状態になっている。
「じゃあ、今日は僕と一緒にいればいいんじゃないですか?」
 トモさんはしばらく黙った後、
「助かります」
 と小さくささやいた。なんだかそれが無性に可愛くて、僕自身もものすごく恥ずかしくなってきていた。
 僕は恥ずかしさからトモさんから目を反らし、まわりを見渡すことにした。
 近くのマンションの一室では、女の人が干してある布団をぱんぱんぱんぱん叩いているのが見える。
「本当は布団を叩いちゃ駄目なんですよね。あれは繊維を傷めるだけで……もしもその行為自体がストレス解消になるんだったらいいですけど、なるべくだったらやらないほうがいいんです」
「トモくんは博識なんですね」
「いえ、ただ昨日聞いたラジオをそのまましゃべっているだけです。博識なのは僕じゃなくてラジオの方です」
「ラジオも頭いいかもしれませんけど、トモくんも頭いいですよね。いいなー。私も頭が良くなりたいです」
 僕は頭がよくなんてない。ということを言おうとしたが、いつの間にかタイミングを見失っている自分がいた。
トモさんの前と言えどもやっぱり僕はまだおしゃべりが苦手らしい。
「頭がよくなったら、私はつり上がった赤い縁の眼鏡をかけたいです」
「『ザマス眼鏡』ってやつですか?」
「そうそう」
「じゃあ試しに語尾に『ザマス』って付けてみてください」
「嫌ですよ。私、頭よくないですから」
「じゃあ、『ザマス眼鏡』をかけられませんね」
「ふふふっ……そうですねー」
 眼鏡かー。僕はトモさんの顔に想像上の眼鏡をかけさせてみる。想像上の眼鏡をかけたトモさんのほうが今のトモさんよりもトモさんらしいと思った。
「あの、なにか面白いことがあったんですか?」
「いや、トモさんの眼鏡が似合うなあって思って」
「そうですか? 私、普段は眼鏡っこなんですよ」
 じゃあ、今は。
「そう、コンタクトです」
「コンタクトって恐ろしくないですか?」
 学校に通った年数イコール眼鏡歴、というヘビー眼鏡ユーザーの僕にとってはコンタクトレンズという存在はおばけよりもなまはげよりも怖いものだった。
「最初は私もおばけとかなまはげくらい怖いものでしたけど、今はもう平気ですよー」
 トモさんはそういうなり、中指で瞼をひっぱって「あっかんべー」をしたと思ったら、人差し指を自分の瞳に当てた。
 僕がびっくりしていると「ほら」と僕にその人差し指を差し出してくる。彼女の指は細くて、それでいてすらっと長くて、とにかく綺麗だなーと思う。
 見ると、こんぺいとうくらいの大きさの平べったい膜がちょこんと指先に載っかっていた。それが彼女の付けていたコンタクトレンズであると僕が認識するまでしばらく時間がかかった。なんだか理科の実験で使うプレパラートを思い出していた。あれで使うカバーガラスよりも薄いのかもしれない。
 屋上の屋根でカラスが鳴いていた。
聞こえるのはその鳴き声だけで、これ以上静かだったら僕の心臓の音が鳴り響いてしまうのではないかと思ってしまう。
「つけてみますか」
 彼女はそういうなり僕に顔を近づけてくる。
「やっぱり怖いです」
「じゃあ、私がやってあげますね」
 そう言うと彼女は僕の眼鏡を外す。
 彼女の細くて、それでいてすらっと長くて、とにかく可愛い指先が僕のこめかみに当たった。なんだかそれが無性にどきどきした。顔が火照ってきた気がする。
眼鏡を外されると一気に僕の世界がぼんやりとしてきた。もしも僕の世界が映画だったら今頃スクリーンでもこのぼんやりとした情景が映し出されているのだろうか。
 ああ、そうか。
あぶらとり紙ってこういうシーンに備えるために存在するものなのか。
全国のモテモテな生涯を送っている高校生はそのために熱心に顔を拭いているんだ。きっと女の子に触られる前のエチケットみたいなものなんだ。
 だけど僕にはそんなエチケット精神は持ち合わせていない。僕にはそんなモテモテな生涯は送れないようにきっとこの映画の台本には書かれているに違いない。
 彼女はゆっくりと僕の瞼に指をあて瞳を露わにすると、優しく人差し指を僕の瞳につけた。
 ちょっとだけ涙が出てしまう。
悲しくもないのに、そして寂しくもないのに、僕は彼女の前で涙を流している。
やっぱり僕はモテモテにはなれない。
「はい、終わりましたよ」
 それは看護婦さんが診察の終わった子供をほめるように優しい呼びかけだった。ぱちっと一回まばたきをしてみる。
「うわっ」
 はっきりとした世界が広がった。きっとスクリーンの観客も僕と一緒にとても小さな歓声をあげているに違いない。
「すごい。トモさん、右目の視力いくつくらいなんですか?」
「れーてん、れーごー。ド近眼です。やっぱり強すぎますよね」
「いや、ぴったりです。本当に僕たちは気が合いますね。右目の視力まで同じなんて」
「トモくんの左目の視力は?」
 僕は一瞬ためて口を開く。

「「れーてん、れーろく!」」

 また声が合わさる。気持ちが良かった。たぶんとても大きなオーケストラの指揮者の人くらい気持ちがいい。まあ、そもそも指揮者自体やったことないんだけど。
「だと思いました」
 彼女は僕の眼鏡をかけて「やっぱりぴったりだ」と喜んでいた。
「ねえ、トモくん。この眼鏡ください」
「ダメですよ。僕の鼻の脂で汚れてるんですよ。それ」
「残念です」
「でもすごいな。ここまで一緒だったら、双子って呼んでもいいかもしれません」
「ふふふ、そうかもしれませんね」
 彼女は笑う。僕も笑う。この映画の脚本はそれほど悪くないな、と思う。
 これから僕らがどうなるかはわからない。
けど、とりあえず僕は今「死にたい」とは思わなくなっているのだから。
 正直これから先、僕は主演男優として全米が泣くような波瀾万丈の演技は見せることはできないけどそれはそれでいい気がした。
 僕らはとにかく笑いあった。
お互いが『ぼっち』に戻る時間を先延ばししてやろうと思うのだ。
 二人が食べた手羽先の骨はもうすっかり冷たくなっていた。
助演俳優のあの黒猫にあげたら喜ぶかな……と一瞬思ったが、骨を喜ぶのは犬で、あいつは猫であることを思い出して、また笑った。

 


     3 

 雨の日の教室というものはたいてい騒がしいものだ。
 普段は外でバスケットなりサッカーなりしている『ザ・体育会系』みたいなやつらが教室で昼休みを過ごしたりするものなのだ。
 ただそれだけでのことなのに、いつもの五十倍は教室が騒がしい気がする。
 普段の僕だったらそんないつもと違う騒がしさで『死にたい指数』はうなぎ登りなのだが、トモさんのおかげで最近は指数は比較的落ち着いている。だから今日は外の雨模様を楽しむ心の余裕があるってわけだ。
 今までは休み時間が始まったら「とりあえずあれやっとくか」的なノリで机に突っ伏して寝たふりをするという『秘技・俺に話しかけるな』をしていたのだが、ここ最近は外をぼんやりと見ながら放課後にトモさんと会うことを考えていた。
 トモさんは麻薬みたいなもんだな、なんてことを思う。
 すっかり僕はトモさん依存症に陥ってるかもしれない。だとしたら僕は世界で初めてのトモさん依存症の症例として一躍有名に――、まあ、そんなわけがないのだが。
 それにしても、早く学校が終わらないだろうか。もしも僕が不良だったら真っ先に授業をサボタージュして屋上に向かうってのに。
 ただ僕は今のところ地味に無遅刻無欠席の記録を更新中なのでここは我慢して授業を聞くことにする。
 それにしてもなんでこんなに授業ってものは退屈なんだろうか。
 これだけ退屈だとこの四十人いるクラスメイトの一人ぐらいは発狂して暴れだしてしまうような気がするのだが、ふと見回してみた限りではそんなことはないらしい。
 みんな脅されたかのように静かに教師の話に耳を傾けている。
 まあ、たぶんこの中の大半は耳を傾けるふりをしつつ、ほかのことを考えているか、睡眠をむさぼっているかのどちらかであると思うのだが。
 だって『アリストテレスの生涯』だなんて誰が興味を持つんだろう。それにしたって誰だよアリストテレス。どこが名字でどこが名前なんだよ。
 それともアリスさんとテレスさんで二人併せてアリスとテレスなのかな。
 もしかしたらお笑いコンビなのかもしれないね。あまり売れそうにない名前だなアリスとテレス。シュールなコントが似合いそうだなアリスとテレス。そんでキングオブコントで一次敗退とかしそうだねアリスとテレス。
 そんなことを考えているうちに雨がだんだんと強くなってきた。倫理の教師の声が小さいというのもあるけど、だんだん雨音だけが僕の耳に入ってくる。
 トモさんは今日は来るのだろうか。ふとそんな疑問が僕の頭の中に浮かんだ。
『クリーンタウン』で出会ったあの日から毎日のように僕らは屋上で放課後を過ごした。
 話す内容自体は本当にとりとめのないもので、今思い出してもどんな内容を話していたか、ということはすぐに思い出せそうにない。
 ただものすごく楽しかった。これだけは覚えている。
 今までずっと友達のいない、トモさん風に言うと『ぼっち』だった僕はこんなにも話をしたことなんてなかったし、こんなにも人の話を聞いたこともなかった。
 そして日が暮れると僕らはお互い帰路につく。
 彼女がどこに住んでるかは僕は知らなかった。逆に僕がどこに住んでいるかも彼女は知らない。
 なのに僕らはまるで親友のように二人だけの時間をすごしている。端から見れば不思議な関係であることは間違いない。
 だって僕ら自身も不思議に思っているくらいなのだから。

 

 
     ◇

 さらに強まった雨の中、僕は屋上に向かっていた。
 なんだか今日はやけに疲れている。というのも、全てこの雨が原因である。
 下校中の今に雨によるダメージを受けているとういのは当然あるのだが、この雨によって体育が当初の予定のマラソンから体育館内でのバスケットボールに変更になったという点が大きい。
 友達のいない僕にとってバスケットボールをするということは死刑宣告をされるに等しい。
 まずバスケットボールをはじめとする球技はまずグループ分けをしなけらばならない。
「好きなやつ同士で自由に組んでいいぞ」なんて体育教師は簡単に言ってのけるのだが、これほど精神的ダメージをくらうことはない。
 まず、僕はじっとほかのグループが結成されていくのを黙って見つめる。
 すると、だんだんクラスのあまりもので構成されるグループが結成されていく。この結成のタイミングを見極め物欲しそうな目で近づいって、お情けでグループに入れてもらうのである。
 実に精神が破壊されそうな作業。体育教師はこれのどこに自由があるというのだろう。
 体育教師は生徒にとってサービスでこの発言をしているようだが、友達がいない僕にとっては地獄以外のなにものでもない。
 見たことないが、たぶん地獄は針の山でも地の池でもなくって、きっと『体育館でグループが作れなくてうろうろさまよう地獄』なんだと僕は密かに思っている。
 だが、今日の地獄はまたひと味違うものだった。
 今日は好きなやつ同士でチームを組む、という形ではなく、クラスでチーム数だけまず代表者を体育教師が選び、その代表者がクラスメイトの中から一人ずつチームメイトを選んでいく形式だったのだ。
 まさか、地獄を越える地獄があったとは。『いつまでもチームメイトに選ばれず最後まで残される地獄』が誕生した瞬間である。
 なぜ体育教師という人種はここまで友達がいない僕みたいな人種を精神的に追い込むことに長けているのだろう。もはや天才以外の何者でもない。
 いつまでもチームに入れてもらえずに立ち尽くさなければいけない、「逆ドラフト枠」の僕らの気持ちなんて体育教師はわかるはずがないのである。
 僕は前世で体育教師に何か悪いことをしたのだろうか。だとしたらごめんなさい。
 それにしても最後まで残った僕を拾ってくれたチームがあろうことか最下位になるとは僕も想定外だった。
 無言の「こいつが入ってなければ」みたいな視線が僕に槍にように突き刺さる。もう精神的なライフポイントはゼロに近かった。
 そんなこんなで帰りのホームルームが終わって学校を出るころには身体ともにボロボロな状態になっていたというわけだ。
 けどそれでも僕は屋上に向かう。こんなに疲れて、どうしようもなくなっているというのに。
 失ったヒットポイントは回復してもらうしかない。
 そういった意味ではもしかしたらトモさんはやっぱり魔法使いかもしれないな。そんなことを思いながら僕は足下の悪い中早足で進む。
 ――なあ、こんな雨の中に彼女は待ってるのかよ?
 そんな顔で黒猫がいつもの路地から僕の方を見ている。文房具店の屋根の下においてある段ボールの上に毛布がおいてあり、そこにいかにもリラックスして寝そべっている。
 どうやらここの店の主人が用意してくれているこいつのねぐららしい。雨風も防げて、こいつにとっては最適な環境に見えた。
「そりゃ、待ってるさ。だってこれまでだってっずっと」
 ――今までに雨が降ってた日はあったか?
「そ、そりゃないけどさ。いや彼女は来てるに決まってるんだって」
 ――その自信はどこから来るんだか。その脳天気さは見習うところがあるね。
「猫の君ほどじゃないよ」
 と黒猫を勝手に使って自問自答をする。
「来るに決まってる」と言ってみたものの、実際には「もしかしたら来ないんじゃないか」って思いの方が実は強かった。
 だって僕らはあそこで会うことを約束しあっているわけではない。
 僕が来なかったって、彼女が来なかったってお互いを責めることはない。突然来なくなることだって十分ありえることではある。
 だけどいつも僕が行くと彼女がいるのだ。そして自然と会話が始まる。
 すごく気持ちよくてすごく心地よくて、すごく安心感に満たされるようなあの時間。
 今日も僕はあそこに行きたくて行きたくてしょうがない。
 だけど彼女にとってはどうなのだろうか。授業中もそんなことを考えていた。
 なんで彼女は屋上に来るのだろう。そして何で僕なんかと話すのだろう。
 もしかして無理矢理来てるんじゃないだろうか。僕が毎日行ってるから、トモさんは無理をしているのではないだろうか。
 雨が降っているからだろうか。
 自分の頭の中がマイナス要素で満たされている感じがした。
 初めてだった。あの屋上経向かう足どりがこんなにも重いのは――。

 


     ◇

 彼女は屋上にいなかった。「何で?」とは特に思わなかった。
 どちらかと言うと「やっぱりなー」って思いで一杯だった。
 だんだんと小降りになっていく雨粒が寂しく屋上のアスファルトにぶつかる。
「泣けっ」って言われたら「へいっ。お安いご用で! へへへ」ってすぐさま泣ける気がした。そのくらい今僕は寂しさに襲われていた。
 いつも弱い僕がさらに弱ってる感じがする。
 もしも風が吹いたらこの屋上から飛ばされていくくらいに。
 とりあえずこの現実を受け入れるために少し時間が必要だった。
 僕はよれよれにながらも入り口に向かう。もう僕のライフポイントはゼロに近かった。
 それでもなんとか僕は、エレベーターまでたどり着くことができた。といってもここから家に帰る気力はほとんどないといってよかった。
 僕はこれからどうすればいいんだろう。
 自分で自分が情けなくなる。彼女がいないだけで僕はなんにもできないのか。
 エレベーターがスムーズに一階から屋上へと上がってくる。この雨だ。もしかしたら客足も遠のいているのかもしれない。
 ただでさえ過疎っているこのデパートがさらに過疎っているのはそれなりに問題だとは思うが、今の僕にはそこまで心配できる心の余裕は残ってはいなかった。
“屋上階でございます”
 いつものように愛想が欠如したアナウンスが鳴り、エレベーターの扉が開く――。

 お互いにびっくりしていた。

 エレベーターに乗っているトモさんは目を丸くして僕を見る。
 彼女の制服のシャツはうっすらと濡れている。肩から水色の下着が透けているのが見えてしまっていた。
 僕はなんだか見てはいけないものを見てしまった気がして、すぐさま目をそらす。
「来てたんですね」
 トモさんはいつもと同じ屈託のない笑顔を浮かべていた。僕はそんなトモさんを見て思わず力が抜けてしまっていた。

 


     ◇

「びっくりしました。トモくんいきなりその場にしゃがみこんじゃうんだもん」
 いつも座っている駐車ブロックは雨で濡れて座れそうにないので、僕らは傘をさしながら下に見える寂れた町並みをぼーっと眺めていた。
「いや、まさかトモさんとエレベーターで会うとは思わなかったから」
「トモくんは帰るところだったんですか?」
「うん、その、トモさんがいなかったから」
「ごめんなさい。これを買いに一階まで行ってて」
 トモさんの手には小豆色をした細長い缶飲料が二つ。
「えっと、おしるこ?」
「そう、あの、寒いと思って。トモくんが」
 気を失うかと思った。一瞬でも彼女を疑った自分が恥ずかしい。
「けどよかった。すれ違いにならなくって」
 トモさんはそう言うと僕に二つのうちの一本を渡してきた。
 ここまで来る間に少し冷めたのだろう。熱すぎず、かといって冷たいわけでもなく、ちょうどいい温度のおしるこが僕の手に握られている。
「あの、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 それから僕らは何もいわず、ただお互いの目を見つめていた。
 相変わらずきれいな目だなって思う。
 僕が見とれていたせいだろう。彼女は目の横に笑いじわを作ったと思ったら、「ぷっ」と吹き出していた。それを見て僕も笑う。
「飲んでいい?」
「どうぞどうぞ」
 プルトップを開けるとかぷっと音がして、おしるこが飲み口に少し飛び散る。静かに口をつけて缶を斜めに傾けた。
 甘い。実は僕は小豆が苦手だった。
 だけど、トモさんが持ってきてくれたものを飲まないわけにはいかない。けどこのおしるこは美味しかった。苦手、苦手じゃないの以前に体の芯まで暖まる気がした。
「おいしい」
「そう、よかった」
 彼女の言葉に嘘はないようで、見るからに安堵している様子がうかがえた。
「寒かったですか?」
 そう聞かれて僕はちょっと考える。
 寒かったかもしれない。だけどこの屋上に来て、トモさんの姿を探して、それでもやっぱりなくって、ライフポイントがゼロになって、それでいてなんとかエレベーターの前にたどりついて――。
 そう考えると寒いか暑いか、過ごしやすいか、過ごしやすくないか、なんてことなんて考える余裕なんてなかった。
「そうでもなかったです。ただ」
「ただ?」
「あの、その、いなかったから。トモさんが。それであの、ちょっとライフポイントがゼロになってしまっていて」
 もうなかばやけくそだったのかもしれない。
 僕は気がついたら自分の考えていることをトモさんに言ってしまっていたのだ。
 前だってそうだ。なぜかトモさんの前だと自分が考えていることを何のオブラートにも包まずにそのまま口に出してしまう。
 それはたぶんトモさんから感じられるものすごく大きな安心感とか、なんでも受け止めてくれるトモさんへの信頼感とか、そんなものが相まって、まるで麻薬のように僕の脳を刺激しているに違いないんだ。やっぱりトモさんは魔法使いであり、麻薬だと思う。
 そもそもまだトモさんと出会ってからまだ日が浅いというのに安心感だとか信頼感だとかそんなものがなんで僕に芽生えているのだろう。
 こんな人見知りでコミニケーション下手の塊みたいな僕に出会ってすぐの、しかも女性にこんなにも心を許している、そのことに自分自身で驚きを隠せなかった。
「ごめんなさい。私もその、あの」
 顔が赤かった。僕も彼女もどっちも。
「どうしても、寂しくって、その、なんだか私一人雨の中待ってるの寂しくて、あのトモくんが来ないかもしれないなんて思っていて」
 顔が赤いのはきっとおしるこのせいだ。
 あまりにもおしるこが熱いから僕ら二人は顔を赤くしてるんだ。それ以外の何が僕らの顔を赤くすると言うのだろう。
「馬鹿ですよね。私とトモくんは別にここで会うことを約束しているわけじゃないんですよ? トモくんが別に来なくても全くおかしくない。それなのに私は思ってたんです。トモくんがきっとここ来てくれるって」
 またびっくりしていた。
 トモさんと出会ってからびっくりすることだらけだ。僕とトモさんが全く同じ事を考えていたなんて。
「おしるこを買いに行く途中、ずっと考えてたんです。なんでトモくんはこの屋上に来てくれるんだろうって。毎日毎日、わざわざ放課後で私なんかと話してくれる。もしかしたら無理してるんじゃないかって。私が最初にここに誘ったばっかりに、わざわざここに来てくれるんじゃないかって。あの、えっと、トモくんやさしいから」
 顔が熱い。
 何だよ。このおしるこ熱すぎるよ。「お客様サポートセンター」に速攻で電話してるレベルだよ。
「あの、だからトモくんあの」
「ごめんなさい」
 その瞬間、彼女の瞳が潤んだ気がした。
「え?」
「あ、変な意味じゃないんです。ただ僕ももしかしたらトモさんが来ないんじゃないかと思って、トモさんを疑っている自分がいるんです。だから謝ろうと思って、ごめんなさい」
「いや、あのそれはこっちこそ、あの、ごめんなさい」
 お互いぺっこりと頭を下げているこの図は端から見るととんでもなく間抜けなんだろうと思う。謝ったあと、僕らはお互いの顔を見合わせる。
 それがなんだかおかしくて二人して笑った。たぶんおしるこで赤くなった二人の顔がお互いにおかしかったのかもしれない。
「じゃあ、あの、またお話聞いて欲しいことがあるんですけど聞いてくれますか」
 トモさんがまたいつもの無垢な笑顔を浮かべて話かけてくる。
 柔らかくて、何も罪もない、この笑顔を見て彼女に安心感を覚えるなっていうほうが無茶な話だ。
「聞きます」
 今、トモさんから見ると僕はどんな笑顔を浮かべているのだろう。
 きっと自分でも見たことのないような笑みを浮かべてるんだと思う。その笑顔がかっこ悪くなければいいな、って思う。
「あの、今日私体育があったんですけど、それが雨でテニスからバレーになっちゃって……そのチーム分けがもう散々で――」
 もはやもうびっくりはしていなかった。なんとなくだけどそんな気がしていたから。
 僕も同じようなことがあった、なんてことを彼女に言ったらどんな顔をするだろう。そんなことを思いつつ、僕は彼女の話に耳を傾けた。(了)