すみやきの小説置場

小説を書き始めた18歳から三十路の今に至るまでのすみやきの小説置場

鮭チャーハンを食べる動物に恋をした。(2)

     *

翌日の夜。
 時計は深夜の一時を回っている。
 深夜の自室。テーブルの上には、この時間までゆっくりと丹誠込めて冷やした炭酸水。
 コンビニで買ってきたその炭酸飲料を飲むために僕は熱い風呂に長時間浸かってきたわけだ。
 もう喉はからからでサハラ砂漠状態。
 体全体が水分を欲しているのがわかる。
 あせる気持ちを押さえて僕はペットボトルの蓋を開けた。
 ――と、ここで飲んでしまうのは素人のやること。
 僕ぐらいのレベルになるとこのタイミングで冷凍庫からキンキンに冷えたグラスを持ってくる。
 グラスは、これでもかというほど冷えていて、白く曇った全体から冷気が漂っている。
 これは父親がビールを飲むときにグラスを冷やしてるのをマネして始めたのだが、本当によく冷える。
 普通にグラスにつぐよりも冷たく炭酸水をいただけるという寸法である。
 ここでプロフェッショナルな僕はさらにここに氷を投入する。
 氷といっても冷凍庫で型に流し込んでできるあのうっすいような氷ではない。
 超プロフェッショナルな僕は、コンビニで売っているブロックの氷を既に用意しているのだ。
 たかが氷と思うなかれ、コンビニの氷は家で作るようなうっすい氷なんかとは比べものにならないくらい飲み物を冷やしてくれる。
 それに見た目も氷山から削ってきたかのごとく美しい。
 嘘だと思うなら一度コンビニで買ってきて試してみて欲しい。人生観変わるぜ?
 さて、丹誠込めて冷やした炭酸水、キンキンに冷えたグラス、そして氷山から削ってきたかのごとく美しいこの氷。それが一つになるとどうなるか。
 最強の飲み物になるわけだよ。
 究極の飲み物になるわけだよ。
 至高の飲み物になるわけだよ。
『おい、女将を呼べ! この飲み物を用意したのは誰だあ!』状態になるわけだよ!
 さっそく僕は究極で至高で女将を呼んじゃうような飲み物づくりにとりかかる。
 氷山から削ってきたかのごとく美しい氷をキンキンに冷やしたグラスに落とし込む。
 からん、と気持ちいい音をさせて氷がグラスの中で華麗に回る。
 まるでグラスというステージで氷というバレリーナがワルツを踊っているかのようだ。
 そして丹誠を込めて冷やした炭酸水を氷が躍っているキンキンに冷やしたグラスに注ぐ。
 氷がバレリーナ、グラスがステージだとすると炭酸水はスポットライトと言ったところだろうか。
 全て完璧な状態で整えられたこの炭酸水が今僕の手に握られている。
 ごくり、と思わず喉がなってしまう。
 僕ははやる気持ちを押さえて、腰に手をあてた。
 飲み物を飲むときの体勢はやっぱりこれに限る。
 そしてグラスを口に向かって傾けて一気に――。

 じ――――っ。

 一気に――。

 じ――――――っ。

 どこからか視線を感じるがここは無視して一気に――。

「じいいいいいいいいいっ」

 一気に飲むことを僕はおいておくことにした。
 それだけ僕に注がれた視線は熱い熱いものだったのだ。
 だって現実に「じ――っ」って言いながら人を凝視する人間を見るのはこれが初めてだ。
 いや、人間ではないか。「クマ」だから。
「あの……もしもし」
「じいいいいいいいいい」
 うん、完全に言葉のキャッチボールができていない! すばらしいね! ビューティホーだね! メイクドラマだね!
「あの! もしもし!」
 さっきと同じ言葉を強く繰り返す。
 なんだか耳が遠くなったおじいちゃんに話しかけているおじいちゃんみたいだな、なんてことを思う。
「じいいいいい……っは」
 どうやら「クマ」は僕に気づいたようだ。
「あれ? タクマ! 偶然だね!」
「偶然も何もここは僕の家でなおかつ僕の部屋だ!」
「あははっ。そういう解釈もできるかもしれないね。おもしろいこというなータクマは。ぜひ落語家になるといいね」
 落語界をなめてるにもほどがあるね。
「それでさ。真打ちの古今亭タクマ師匠」
 流派が決まるのと出世がいくらなんでも早くないかい?
「その、おいしそうなものはいったいなんだい?」
 ツキノワグマは明らかに僕の右手に握られた炭酸水を見ている。
 なんだろう。
 また熱い熱い視線を感じる気がするのだが、気のせいだろうか。
「え……その。毒! そう毒! トリカブトの一億倍ぐらいの猛毒! アフリカ象が一瞬にして跡形もなく爆発しちゃうくらいの毒!」
 自分でもどんな毒だかさっぱりはわからない。
 どうやら、僕には話を作ることに関しては才能が全くないようだ。
 落語家にはなれそうにはないな。こりゃ。
「そ、そんな……、だめだよ! タクマ! 命は大事にしないと! どんなつらいことがあるかは知らないけど! 生きてりゃいいことあるって! 涙の数だけ強くなれるって! もともと特別なオンリーワンだって! 三年目の浮気ぐらい多めに見ろって!」
 最後は明らかに曲のチョイスミスだろうが!
 ……まあ、このツキノワグマがそんな反応するのも仕方がない。
 だって、猛毒を腰に手を当てて飲み干そうとしているのだ。
 これで僕が自殺を考えてないと考えるほうが難しい。
「そんな猛毒はこうしてやる!」
 あ……まずい。
 そう思った時には遅かった。
 ツキノワグマは持ち前のもこもこの手で僕から炭酸水を奪い、そしてそれを――。

 一気に飲み干した。

「なぜ! 自殺行為に走るんだこのツキノワグマは!」
 もちろん中身は炭酸水だから死にはしないわけだが。
「タクマ! この毒美味しい!」
 そりゃそうだろうよ。
 僕が一生懸命、最高の状態に仕上げた炭酸水なんだからな!
「こんなに美味しい毒だったらきっと自殺も悪くないものなのかもしれないね。タクマ」
 さらっとなんてこと言うんだ。
「あのさ。ツキノワグマ。君は『一休さん』って知ってる?」
「もちろん。知ってるよ! 『ドカベン』とか『あぶさん』とか書いてる人の漫画でしょ?」
一球さん』じゃねえんだよ! 誰が知ってるんだよ! 平成生まれがネット検索することうけあいの野球漫画を例に出すんじゃねえ!
「ああ、あのスキンヘッドの男の子の方の一休さん
「せめて坊主って言ってやれ!」
 一気に頭の中の一休さん像が人相悪くなっちゃったじゃねえか。
「その一休さんが和尚さんに留守を頼まれるって話知ってるか?」
「うん、確か和尚さんが大事にしてる水飴を毒だって言って――、は! たくま! ってこの美味しい毒って」
 ここまで言えば、いくらツキノワグマでもわかるよな。
「水飴だったんだね!」
「解釈の方向が残念すぎるわ! 俺が言いたいのはこれは毒じゃないってことだ!」
「それならそうと最初から言えばよかったんだよ! おかげで飲みたくもない美味しいやつを飲んじゃったじゃん! あーおいしかった!」
 後悔がひとかけらも感じられないのだけど!
「まあ、嘘をついたのは僕が悪かったと思うけどさー」
「そうだよー。タクマ! 嘘をついたら、両手両足を縛って牛に引かせるよ!」
「初耳だよ! そんな重い刑罰! ごめんなさい! 嘘ついて!」
 そんな中世みたいな四つ裂きの刑に処されるくらいだったら、炭酸水の一杯や二杯やすいもんだね!
「……で、水飴じゃないとしたらこの美味しいものは一体なんなの?」
「飲んだんだからわかるだろソーダだよ。炭酸水」
「こんな美味しいもの初めて飲んだよ」
 前、ホットミルク飲んだ時も同じこといってたよな。デジャブかと思うくらいだ。
「この前の自動販売機の件と言い、君は世間を知らなすぎる気がする」
「まあ、クマだからね」
 便利だなー。クマって。
 僕もなれるもんならなってみたいもんだね。
「それでさ、何しにきたの?」
「んにゃあ?」
 可愛く首をかしげるツキノワグマ。んにゃあ、じゃないよ。クマのくせに。
「だって、たくま。また来るっていったじゃん」
「僕はそれに対して「いい」とも「悪い」とも言ってない」
「だって、あれじゃん。何も言わなくても通じる間柄っていうか」
「まだ会って二日目だっての」
「一度会ったら友達で、毎日会ったら兄弟だ!」
 そんな『ドレミファどーなっつ』理論をここに持ってくるな!
「毎日会った私とタクマは、兄弟だ。貴様と俺とは同期の桜! 俺とお前と大五郎!」
 全くよくわからない上にさらに関係性を複雑にしなくても!
「というわけでおじゃましまーす」
 丁寧に挨拶したつもりだろうけど、もうすでにいろいろとお邪魔していることに気づかないかなこのツキノワグマは。
「いいけど、何一つかまわないぞ。僕は」
「かまわないってそれは村八分ってことかな」
「いや、別にそこまでかまわないわけじゃないけど。っていうかなんてことを言うかな」「村八分ってタクマ知ってる? 仲間はずれにしちゃうことなんだけど、唯一クリスマスパーティとハロウィンパーティだけは付き合ってもいいみたいな」
 それ僕の知ってるのと違う!
 それにそれなんか楽しそうじゃねえか。どんだけイベント大事なんだよ。っていうかなんか逆に気まずそうだな、それ。
「そんな村八分状態にされるのは私は反対だな!」
「ガン無視なんてしないっての! ただ、僕は僕でやることがあるから、君にはかまってやれないって言ってるの! ただそこで大人しくしてなさいってこと」
「なんだ。村八分にしないんだったら早く言ってください!」
村八分なんて概念を最初に持ちだしたのは君だろ!」
「そうと決まれば、大人しくしてるよ! 息もしないし、呼吸もしない!」
「うるせえな! だから大人しくしてろ!」
 あと息しないのと呼吸しないのはおそらく同じような行動だ!

僕はツキノワグマと向かいあう形でノートパソコンを置くと、日課の積み恋愛ゲームを消化する作業に戻った。
 ヘッドホンをして、画面をやや小さめにしてのプレイなのはツキノワグマがいる手前だ。いくらクマが相手だって僕にはプライバシーってものがある。
 まあ、本当に邪魔だったら追い出せば良いし。
 そしてまたいつの間にか着ぐるみを脱いだ当のツキノワグマは、僕があまりにもうるさく言うもんだから、大人しく部屋にある漫画本を読んでいる。
 一応、恋愛漫画と名の付くものはだいたい買っているので、少年漫画、青年漫画の他に少女漫画や女性向け漫画なんかも部屋にはあるので、退屈はしないだろう。
 ツキノワグマは、一度漫画を読み出すと、手が止まらなくなる体質のようで、逆に僕がわざわざツキノワグマの様子を窺うくらいの集中っぷりだ。
 だから僕も気にせずにいつものように恋愛ゲームに熱中することにした。
 なるべくにやけないように。それだけを注意しつつ。

 一時間後。深夜二時。
 深夜二時には魔物がいると僕は本気で思っている。
 眠気? いや、そんなものはブラックコーヒーとレッドブルでカバーした。
 性欲? ……は恋愛ゲームをしてる最中に性欲なんてものは邪道だ。
 人間の三大欲求、眠気、性欲、の他にある欲求。深夜にどこからともなく湧いてきてしまう欲求。
 そう食欲。深夜二時というのはとてつもなく腹が減る。
 そして、この時間に食うものはたいがいがとてつもなく旨い! 通常の五割増しで旨い!
 健康に悪いとかダイエットとか知ったこっちゃない! 食べ盛りの成長期の僕にそんなことを言う方が間違ってるのだ! いや別に誰にも言われてないけど。
 これ以上漫画の邪魔をするのは気が引けたので声をかけずにそのままにしておいた。
 なんで僕自身の部屋でここまで気をつかわないといけないのか、という疑問もないことはないのだが、ツキノワグマが一生懸命に漫画を読んでいる姿を見ていると、ここが僕の部屋だろうがなんだろうが、彼女に声をかける行為がすごく悪いことに思えてしまうのだ。
 僕はこっそりとキッチンへと向かう。
 冷蔵庫を開けると、残った冷やご飯にこれまた残った刻みネギ、それに鮭フレークに卵なんかが転がっている。これさえあれば何でもできる。元気がなくたってなんでもできる。
 まずは、中華鍋にサラダ油を入れて熱するところからスタートだ。
 ポイントはこれをとにかくカンカンに熱すること。煙がガンガン出るくらいまで。
 ただ、火災報知器が作動するまでやっちゃいけない。けどなるべく熱く熱く熱してください。
 油はやや多めでいい。油が多めの方が中華料理は旨い。
 まあ、好きずきなんだけどね。
 そこにあらかじめ溶いておいた卵を鍋にぶち込む。ポイントは完全に卵を混ぜきってしまうこと。
 よく、卵をまぜる時にはあまり溶きすぎないようにとか言われるけど、ここだけは無視。
 鍋がカンカンに熱せられているので下手をしたら白身と黄身が混ざり合う前に卵が固まってしまう。だから僕的には完全に混ぜきってから卵を焼くことを推奨する。
 まあ、好きずきなんだけどね。
 そして、そこに鮭フレークを投入。
 これは入れ過ぎるとしょっぱくなりすぎるので加減を見て入れて欲しい。
 そして、最後に冷やご飯とネギを投入。ネギは最初に入れて少し焦げ目をつけてもいいかもしれない。けど、今回はネギのシャキシャキ感を大事にするのであえて最後に入れる。
 まあ、好きずきなんだけどね。
 材料を投入したら、とにかく冷やご飯をつぶす。
 本当は、最初に冷やご飯をほぐしておくと、さらさらになるのだが、今日はこれも無視。理由はただ一つ。めんどくさいから。
 そして、あとはひたすらこれらを炒めるわけなのだが、この時、鍋をむやみに振らなくていい。というかあれはプロの料理人に任せておけばいい。
 中華鍋を振り上げるのは、振り上げられた食材が火の上を通過することで、炙らせてご飯をパラパラにするのが目的なのであって、一般家庭のコンロだとそこまで火は強くないので木べらでほぐす程度にとどめておいた方がいい。逆にコンロから鍋を離さないくらいでいい。
 別に振り上げてもいいっちゃいいけどね。かっこいいから。
 まあ、好きずきなんだけどね。
 そして、最後に香り付けに醤油を少量鍋に垂らしてもらいたい。こればっかりは好きずきとかじゃなくて、とりあえず垂らしてみて欲しい。人生観変わるぜ!
 味付けは鮭フレークの塩っ気とこの醤油だけで十分。うま味調味料を加えてもいいけど、基本的にこれだけで大丈夫。
 と、ここまで早足で説明しちゃったけど、こうしてできあがったのが――。
「ねえ、タクマ。何それ」
 誰かの声で僕の料理実況を中断された。
 まあ、「誰か」と言っても僕以外に言葉を発するのは一人、いや一匹と言うべきだろうか。
「ねえねえ、タクマ! ねえねえねえ!」
 先ほどの熱心に漫画を読むあの姿はどこへやら、といった感じのツキノワグマがそこにはいた。
「そのおいしそうな匂いをさせているものは何? ってことを私はとってもとっても知りたい」
「え、いや、チャーハンだよ。鮭チャーハン」
「すげーいい匂いだ! タクマでかした! そんな君にはノーベル平和賞をプレゼントだ!」
 いつからこのツキノワグマは、ノーベル賞の選考委員になったんだろう。
「いや、別にこれを君にあげるとは一言も言ってませんけど」
「いやだなあ。タクマったら冗談がきついんだから! 家燃やしちゃうよー?」
「あ、どうぞどうぞ! 召し上がってください!」
 可愛い顔してさらりととんでもないこと言うな。このツキノワグマ
 僕はお皿を二つ用意して、ツキノワグマと僕の二つのチャーハンをテーブルの上に並べる。
 作ったばかりの鮭チャーハンはゴキゲンに湯気をたててテーブルの上に置かれている。
「では、いっただき――」
「待った!」
 今にもがっつこうとしているツキノワグマを僕は急いで止める。
「なんだよー。タクマ。もう家は燃やさないから早く食べさせてよー」
「ごめん、食べていいから家だけは燃やさないで! ちょっと飲み物を用意するぐらいいいだろー」
「飲み物? あの冷たい冷たい炭酸? それとも甘い甘いホットミルク?」
「いや、鮭チャーハンにはこれ!」
 僕は炭酸水を飲んだときにも使ったブロックの氷とキンキンに冷えたグラスを用意。
 そして、そこにこれまたキンキンに冷やしたウーロン茶をグラスにぶち込んでやる!
「はははは! 鮭チャーハンにはウーロン茶と決まっているのだ! 中国四千年を甘く見るな!」
「えらい! タクマ! とってもえらい! 『なかとみのかまたり』くらいえらい!」
「もうちょっといかにも偉そうな人でたとえて欲しかった!」
 いや、中臣鎌足だって十分偉いんだろうけども!
「それじゃあ! いっただきマンモース!」
 二十一世紀の今において、世界中探しても誰も言わないような挨拶でツキノワグマはチャーハンを口にする。君はマンモスじゃなくてツキノワグマなのに。いや、そんなことは本人もわかってるか。
 チャーハンを口にしたツキノワグマは、しばらくすると目に涙を浮ばせた。え……何? そんなに泣かせちゃうほどの味だった?
「ねえ、タクマ」
「え、なになに?」

「あ……あひゅい」

 ……あ、そうだった。このツキノワグマは猫舌だったっけ。クマのくせに猫舌とは生意気だ!
「じゃあ、ウーロン茶でも飲みなよ」
 と僕が勧めるよりも早く、ツキノワグマは目の前のウーロン茶に手を伸ばしていた。
 ごきゅっごきゅっと飲み干すと、
「ぷはあ。タクマ、あついよー」
「そりゃあ、見たらわかるでしょうよ。こんなにも湯気が出てるんだから」
「ねえ、タクマ。冷まして」
 冷ましてと言われても僕にはどうしようもないので自分でどうにかしてください!
「……ちぇ」
 すると、ツキノワグマはレンゲでチャーハンをすくい、ふぅーふぅーと冷ましはじめた。
 冷ましている時のツキノワグマのすぼめた唇がチャーハンの油で光って見える。
 まるでリップクリームをつけたばかりのようなその唇がなんだか無性に可愛く思えた。
 ただでさえぷるぷるな唇がさらにぷるぷるになっていた。
「ん? どうしたのタクマ?」
「んー。なんか可愛いと思って」
 気づくと僕はそうつぶやいていた。
 言った後に「しまった」と言う後悔は特になかった。だって本当に可愛いと思ってそれを口に出したのだから。
 けど、問題は僕ではなく、ツキノワグマの方にあった。一瞬にしてツキノワグマが固まってしまったのだ。
 ツキノワグマでもフリーズするんだなー、なんて僕はぼんやり考えていた。
 そして、ツキノワグマの顔がちょっとずつ赤くなっていくのがわかった。
 ツキノワグマでも赤くなるんだなー、なんて僕はぼんやりと考えていた。
「冷めるよ?」
 フリーズして赤くなっているツキノワグマに僕は鮭チャーハンを促す。
「食べるよぉ。食べればいいんでしょ!」
 ツキノワグマでも怒るんだなー、と僕はぼんやりと考えていた。
 というよりなんで僕はこんなにも怒られているんだろう。
 なんだか腑に落ちないけど……まあ、いいか。
 ツキノワグマのチャーハンも良い感じに冷めたみたいだった。ツキノワグマはレンゲの中でさらにちっちゃなチャーハンを作ると再度ゆっくりと口の中に運んだ。
 そして再びフリーズ。
 ツキノワグマっていうのは何度もフリーズするもんなんだなー、なんて僕はぼんやりと考えていた。
「う……」
 ツキノワグマの目には涙が浮んでいた。そんなにもまだ熱かっただろうか。
 僕がそんなことを思っていると、ツキノワグマはそのままテーブルに突っ伏してしまった。
「そんなに君は猫舌なの?」
 と僕は尋ねる。
「……旨すぎ」
 突っ伏したツキノワグマは静かにつぶやいた。どうやらツキノワグマにもこの時間に食べる鮭チャーハンとウーロン茶の魔力にやられてしまったのだろう。ツキノワグマはつっぷしたまましばらくテーブルから動かなかった。

     *

 次の日、その次の日もツキノワグマは僕の部屋にやってきた。
 部屋にやってきても何をするということはなく、僕の部屋で漫画を読み、ホットミルクを飲み炭酸水を飲み、鮭チャーハンを食べた。
 そんな日が続いたある日のこと、静かに漫画を読んでいたツキノワグマが僕に話しかけて来た。
「ねえ、タクマ」
「ん?」
「デートしようか」
 突然のツキノワグマからの提案に今度は僕の方がフリーズしてしまった。
「ねえ、デート」
 ツキノワグマはもう一回同じ事を繰り返す。
「なんでいきなりそんなことを言い始めたの?」
 僕はツキノワグマに尋ねる。
「いや、なんかしたいなーと思って、デート」
 何のためらいもなくそう言ってのけたツキノワグマの手には僕のコレクションの一部である恋愛漫画が握られていた。
 ああ、なるほど。と僕は思う。
 ヤクザ映画を見終わった人が急に態度を大きく見せてみたり、ボクシング映画を見終わった人がシャドーボクシングをしてみたりするのと一緒だ。恋愛作品に触れると恋愛をしてみたくなるのだろう。
 僕の場合は次々に恋愛ゲームや恋愛漫画を押し込んでいるからなんとか自分自身を保てているものの、実際には本物の恋愛というものに憧れを持っていないわけがない。
「ねえ、デート」
 僕はなんて答えていいかわからずにいた。だけど、ツキノワグマのまっすぐな視線に僕は口を勝手にすべらせていた。
「うん」

 まさか、あんなにも憧れてしたかったデートが深夜にツキノワグマと一緒というシチュエーションだとは思わなかった。
 もしも、タイムマシンで過去の自分に
「君の初デートはツキノワグマとすることになるんだよ」
 と言っても信じてもらえるわけがない。
 もしも、僕が過去の自分だとしたら未来の自分にこう返すだろう。
「恋愛ゲームのやりすぎで頭がおかしくなったのか……」
 いや、恋愛ゲームのやりすぎは間違えてはいない。現にやりすぎなんだから。
 だけど、今僕の隣にはツキノワグマがいる。これは現実の出来事なのである。いくら僕がゲーム脳だとしたって現実と妄想の区別くらいつく。
 デート中のツキノワグマは着ぐるみを着ていた。
 なんで着ぐるみを着ているかは特に問いただすことはなかった。僕が尋ねたところで、もう既に彼女は着ぐるみを着ているわけだし、これから脱ぐことはないだろう。
 僕らは夜道を歩く。ただ黙々と歩き続ける。
 僕自身は何をしていいか全く分からなかったのだ。
 あれだけ恋愛ゲームをしてあれだけ恋愛漫画を読んだというのに――だ。
 けど、何をしていいかわからないということにおいてはツキノワグマも同じようだった。外に出てからというもの僕に話しかけることもなくただただ僕の横を歩いている。これではデートというよりはただの散歩になってしまう。その時だった。
「て」
 ツキノワグマがそっとささやく。
 どきっとしていた。それが「手」を意味することくらい僕にはわかっていた。
 ただ僕はどうしたらいいか分からなかった。ちょっと気が動転していた。
 こういうときはただ自分の手を差し出してやればいいだけのこと。ものすごく簡単なこと。ただ、その簡単なことが僕はできずにいた。
 するとツキノワグマは黙って僕の手を握る。
 握る――といっても着ぐるみなのでごわごわしている。それでも誰かに手を握られるということは僕にとって初めてなわけで――。
 なんだか自分の中でむずがゆさがいっぱいになる。なんだか自分が自分じゃないみたいだ。お酒を飲んだらきっとこんな感じになってしまうのだろうか。
 ものすごい心地よさの中にいるんだけど、それは夢の中なんかじゃなくて、現実の世界にいる――それがなんだか信じることができない。

 結局僕らは自動販売機でジュースを買って飲んだ。ツキノワグマと初めて出会ったあの自動販売機だ。
 そして買ったジュースを飲みながら歩いた。
 ただそれだけだった。
 これをデートと言ったら笑われるだろうか。
 だけど、帰り道に見た星が綺麗だったこととか、買った缶のおしるこが無性に熱かったこととか、ツキノワグマの笑顔をずっと見ていたことが幸せだったりとか――。
 そんな些細なことをこれから僕はずっと忘れないだろう。
 きっとこれから先、何があってもずっと覚えているんだろうなー、なんて僕はぼんやりと考えていた。

     *

 この日から数日間、ツキノワグマが部屋にこない日が続いた。
 ツキノワグマが来ないからと言って僕の生活が変わるわけではない。
 いつものようにゲームをして漫画を読む。
 ツキノワグマと出会う前と何一つ変わらない日常を僕は送っていた。
 失って気づくものがある、なんてよく言われるけど、それは本当なのかもしれないって思う。
 いつのまにかグラスを二つ出しておいたりとか、チャーハンを無駄に余らせてしまったりとか、自分の独り言がものすごく寂しく聞こえたりとか――。
 そんなことでいちいちつかなくていいため息をついてしまうのだ。
 僕はふと気分を変えてみようと思った。
 滅多につけることのないテレビの電源をいれて、適当にチャンネルを回した。
 いくつかのチャンネルを回したが、興味のわく番組が一つもない。
 もう、テレビを消してしまおうかと思った瞬間に僕は一つの番組が目に入った。
 若手芸人がうるさくしゃべってるようなバラエティ番組で、芸人の後ろのひな壇には若い女の子たちが座っている。アイドルなのか単なるタレントなのかは僕にはわからなかったが、彼女たちは肌の露出度が高い服を着てほほえみを浮かべている。

 その中に見覚えのある女の子がいた。

 彼女もまた他の女性達と変わらず笑みを浮かべている。だけどそれは僕の知っている彼女の笑みではなくて、誰かが絵に描いたように作った笑顔だった。その笑顔がなんだか悲しそうに見えた。人の笑みがなんで僕をこんなに悲しくさせるのか……。
「タクマ」
 後ろから声が聞こえた。
 僕が振り返ると、テレビ画面に映っているのと同じ女の子がツキノワグマの着ぐるみを着て立っていた。
 おそらくこの番組は収録なんだからテレビに写ってる彼女が今僕の部屋にいてもおかしくはない。
 僕が驚いているのはそんなところではなくて、しばらくいなかったツキノワグマが僕の部屋に来ているということだった。
 なんて声をかけていいかわからなかった。ネットで検索しても、相談掲示板に聞いてもこの時にかける声の完璧な答えなんておそらく出てくるわけがない。
 僕が何をしていいかわからずにいると、ツキノワグマはいつものように着ぐるみを脱ぎだした。
 着ぐるみを脱いだ彼女は服装は違うが、間違いなくテレビに映っていた女の子だった。
 彼女は黙って僕の隣に座る。
 近いと思った。
 着ぐるみを脱いだ状態の彼女がこんなに僕の近くにいることはおそらく今までになかったのではないだろうか。
 ツキノワグマは何も言わなかった。そして、悲しげな表情を浮かべている。
 今の彼女はもしかして僕が知っているツキノワグマではないのかもしれない。そんな彼女を見ていると僕は寂しい気もちでいっぱいになって、だんだん不安定になっていくのがわかった。
 だんだん自分がぼんやりとしてくる。彼女は相変わらず悲しそうにしている。

 そんな不安定な僕は、悲しそうな彼女をそっと抱きしめていた。

 彼女に抱きついたのは初めてじゃない。あの時の彼女は着ぐるみを着ていたけれど今はそうではない。
 甘い香りが鼻孔をくすぐる。それはホットミルクよりも甘いにおい。
 いきなり抱きついて怒られると思った。叫ばれるかもしれなかった。
 だけど、彼女の反応は僕の予想とは反するものだった。

 彼女の目から涙が落ちてきた。

 そして小さなすすり泣く声が聞こえてくる。
 なんで彼女が着ぐるみを着ているのか――。人目につかないように――。誰にも見つからないように――。
 そんなことがふと頭に浮ぶけど、今の彼女にはそんなことは問題じゃない気がした。
 だって、彼女の着ぐるみが崩れていくように涙が流れているのだから。
 この後、彼女が落ち着いたら、とびきり甘いホットミルクを入れてあげよう。
 それまで僕はとにかく彼女に寄り添っていた。
 ツキノワグマの泣き声は全く凶暴なものではない。僕にはそれが、強くて、そしてどこか優しく聞こえたのだ。
 その夜はいままでで一番長くて、一番暖かい夜だった。

     *

 僕はテレビのチャンネルを回す。
 そこにはあのとき、悲しい笑顔を浮かべていた彼女がいた。だけど、今日の彼女はちゃんと笑えているように見えた。
 その笑顔は、僕と一緒にホットミルクを飲んで、炭酸水を飲んで、鮭チャーハンを食べてる時に彼女が浮かべる笑顔と一緒だった。
 今日も彼女は僕の鮭チャーハンを食べにやってくる。鮭フレークと冷やご飯の準備はできていた。卵とネギもばっちり揃っている。
「タクマ。おなかすいたー!」
 前と変わらない表情で彼女がやってきた。僕もいつもと変わらずに彼女を迎え入れる。 唯一変えたことと言えば、部屋の温度を少し上げていることぐらいだろうか。
 だって彼女はもうあの着ぐるみを着ることがなくなったのだから。
 僕としては、もう一回ぐらいあの着ぐるみを見てみたいと思う。だけど、そんなことは言えずに僕は彼女を部屋に迎えいれる。
 もうあの悲しい笑顔を見ないように――これから先も僕は鮭チャーハンを作り続ける。

                                     (了)