すみやきの小説置場

小説を書き始めた18歳から三十路の今に至るまでのすみやきの小説置場

富岡さんはきっと脱法的なアレなんだ。(2)

第二話 耳と唇と豆腐だと、どれが柔らかくて美味しいのでしょうか。

 口笛はなぜ遠くまで聞こえるの、あの雲はなぜ私を待ってるの――、ぶっちゃけそんなことはどうでもいい。

 

 切実に私が知りたいこと、それは、なんで私は悪い夢ばかり見てしまうのか、ただそれだけ。

 

 私は夢の中で知りもしない人物に追いかけられるし、どこだかわからない建物から真っ逆さまに落ちていったりするし、なんだかよくわからない液体に沈められて苦しかったりする。

 

 こんな夢ばっかりだから、私は眠ることが嫌いだ。人間の三大欲求、食欲、性欲、睡眠欲なんてことを言うらしいけど、正直そんなものは欲してないし求めてもいない。

 

 睡眠欲なんてものがあるから、私は眠らなければいけない。眠ると必ずと言っていいほど夢を見なければいけない。その夢が私を苦しめる。

 

 汗だくになって目が覚める。怖い思いをいっぱいしたのに。時計の針はちっとも進んでない。

 

 だから私は、起きている。

 

 同じ町の全員が寝たとしても私は起きている。夢を見たくないから。睡眠欲なんてものがあるから、私は毎日起きていないといけない。

 

 食欲なんてものもいらない。そんなものがあるからお金なんてものが必要なんだ。

 

 食べていくために人は働かなければならない。

 

 楽しくもないのに笑顔を作り、聞きたくもない話に相づちをうち、そして、酒の匂いがぷんぷんする唇をキスをする。

 

 私のお母さんはそうやってお金を稼いでいる。夕方から出かけていき、朝方帰ってきてはトイレで嘔吐する。

 

 そこまでして何でお金をかせぐのか。私にご飯を食べさせるためだ。ご飯を食べさせるために毎日、飲みたくない酒を飲んで、しゃべりたくもない相手と話し、好きでもない相手と唇を重ねる。

 

 そうしないと生きてけないから。おなかが空いてしまうから。だからお金を稼がないといけない。食欲なんてものがあるから食べていかないといけないし、お金がないといつまでもおなかをすかせていないといけない。

 

 性欲もおそらくいらない。

 

 なんで「おそらく」なんて言葉を使うかというと、性欲っていまひとつよくわからないから。

 

 人を好きとか、愛するとか、欲情するという感情が全くわからない。今まで十六年間生きてきたけど、そういった感情がなくて困ったことはないし、これからも困ることはないんじゃないかと思う。

 

 だからいらない。後、性欲があるから男の人と女の人が結婚して子供ができて……なんて結局お金がかかるから――いらない。お金がかかるようなものは一切いらない。

 

 教えて、おじいさん。なんで人間はお金が必要なんですか。いつまで私は怖い夢を見るんですか、いつまでお母さんは酒臭い男の人とキスをするんですか、いつになったら――私は欲情を覚えるのですか。

 

 おそらく、おじいさんもアルムの森の木もヤフー知恵袋も教えてくれないこの疑問を誰か教えてくれる日がくるのだろうか。

 

 そんなことを思いながら私は今日もなかなか動かない時計の秒針をぼんやり眺めている。

 

 ◇

 

 性欲ってどこに落ちてるんだろう。

 

 向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにあるはずもないのに……。

 ましてや、この女子校の教室……なんてところに落ちているとは思えない。だってこの教室は腐ってるから。

 

 授業中だと言うのに教室の九十パーセントは携帯をいじっているし、残りの生徒だって雑誌を読む、マンガを読む、化粧をする――、まあ絵に描いたような腐り具合。

 

 腐ったみかんどころじゃない。

 

 腐ってもう原型が何かわかってない『何か』だ。そんな、なんだかよくわからない『何か』で構成されたこのクラスという箱の中に性欲なんてものが転がっているわけがないんだ。

 

 箱が腐ってれば、教師だって腐っている。だって、誰に聞こえるわけでもなく「それって声なの?」ってレベルで何かを発しているのだから。

 

 まあ、そりゃ原型をとどめていない『何か』なんだから、おそらく聞く耳なんて持ってない。食パンでも耳はあるってのに、この箱の中に耳を持ってる人がいないんだ。

 

 だから、別に授業しなくたっていいんだろうけど、一日何も考えずに声じゃない『何か』を発しててお金がもらえるんだから、本当に腐っている。

 

 こんなに楽してお金をもらって、ご飯を食べて、あったかくして寝られるなんて本当に本当に本当に、腐っている。

 

 こんなことを言っている私だって端から見たら、原型をとどめてない腐った『何か』には違いないのだ。

 

 もっと私が頭が良ければ腐らずにはすんだのかもしれない。これと言った特技もなく、成績がクラスで中の上。そんな私が学費全額免除の特待生として入れる学校は、この腐った箱しかなかったんだ。

 

 もしも、私に食欲なんてものがなかったら、食費の全額を学費にあてられるのに。

 

 そうしたら、もうちょっとマシな箱に入れたかもしれない。そして、お母さんが酒臭い男の人とキスをしなくてよくなったかもしれない。全部欲のせいだ。欲のせいで私は腐ってなければいけないんだ。

 

 腐ってる『何か』が密集してるせいかこの箱は、ぽかぽかしてる。暑すぎず、寒すぎず、絶妙のぽかぽかだ。



 このぽかぽかのご紹介で私の睡眠欲がゲストとしてやってくる。私の両腕を枕に、教師の声じゃない『何か』をBGMに――。ようやく、私は睡眠をとることができる。

 

 この腐った『何か』だらけの箱でもほめられる点はある。それは、ここで眠っても夢をみないということ。そして、チャイムという目覚ましアラームもついていること。そして、いくら眠っても無料であること。

 

 つまり、この環境であれば私は問題なく生活していくことができるというわけ。……悔しいけど。




 今日もチャイムの音で目が覚めた。

 我ながら器用な睡眠スタイルだと思う。まあ、それだけ授業中静かだと言うことだろう。悪い意味で。

 

 今のチャイムが四時間目の終わりを告げたので、それと同時に昼休みが幕を開けた。長い長い昼休み。長すぎて石になっちゃうんじゃないかと思うくらい。

 

 しゃべる相手もいない、行くところもない私にとって一時間も自分の席に座って過ごすなんて至難の業だ。

 仙人か何かになってしまいそうだ。

 

 だけど、私は仙人のように霞を食べて生きていくことはできない。これも、食欲なんてものがあるせいだ。

 

 いっそのこと仙人にでもなってやろうか。白いお髭を生やして、頭をつんつるにして、クリスマスには、赤い服を着て、トナカイが引くソリに乗り、プレゼントを配る。

 そんな仙人に私はなりたい。

 

 仙人になるには、まずこの長い一時間を昼食でつぶさなければならない。

 

 それも、このラップに包んだおにぎり一つで――。

 

 ラップに包まれた真っ白なおにぎり。シーチキンマヨネーズとか炙り鮭ハラスとかそんな気のきいた具が入ってるわけじゃない。

 

 シンプルな塩おにぎり。山に芝刈りに行ったおじいさんがうっかり穴に落としてしまいそうな、ランニング、短パン姿の絵描き大将が好きそうな、焼いて醤油を塗ったらおいしい焼おにぎりになりそうな、そのくらい絵に描いたようなおにぎりなのである。強いて言えば海苔が巻いてないことくらい。

 

 といっても、私はおにぎり特有のウェットタイプ海苔があまり好きではないので、これはこれでいいのだが――。

 ラップを開けると冷めたご飯特有の「のわーん」とした匂いが鼻孔をくすぐる。

 

 あーむっ。

 

 うん、お米ってスイーツだ。甘い。ゆっくり噛み噛みすると余計に甘い。魔法瓶に入ったちょっとぬるめの緑茶をすすると、なんだか優雅なお茶の時間を楽しんでる……気がしないでも……いや、しないな。所詮、米は米だ。

 

おそらくケーキとかの方が甘くて美味しい。米がなかったらケーキを食べればいいじゃない。甘くて美味しいし。

 

 甘いのは最初のほうだけで、中盤にさしかかるとやっぱり何かしらおかずも欲しくなってくる。美人は三日で飽きるらしいが、お米は十五分で飽きますな。

 

 ふと、周りを見渡すと腐ってる『何か』のみなさん、まあ、クラスメイトとか言うらしいですが、そのみなさんも各自それぞれお食事中のご様子。

 

 ぶっちゃけ、そのみなさんが食べているものにそれほど興味がない。ただ、みなさんに常時着いてるアレが気にかかるのです。

 昼食に塩おにぎりを食べる時に思うのです。

 

 耳って、口に含んだら、おそらく美味しいんじゃないか、なんてことを――。

 

 

 

 最初は、単純に餃子食べたいなーって思ってた。だって、この箱の中には生徒数の二倍の餃子が宙に浮いているようなものだもん。

 

 リンゴ狩りならぬイチゴ狩りならぬ、餃子狩りができちゃいますね。

 

 けど、実際とって食べないことを考えると、紅葉狩りとかに近いのかもしれない。

 

 餃子食べたいなー、ってこっそりと周りの耳を見ていた。いろんな形の耳があるんだって思う。大きかったり、小さかったり、髪にかかってたり、かかってなかったり、柔らかそうだったり、堅そうだったり……。

 

 だんだん、あれを噛んでみたいって思うようになってきた。

 

 噛んだらみなさんはどんな反応をするんだろう。そう考えると、なんだかおなかがもやもやしてきちゃうのだ。

 

 私って変だ。

 

 だって、食欲が発動してきちゃうのだから。こんな時におなかがもやもやしてきちゃうとかもう特殊な身体としか考えられない。

 けど、なんだろう。このおなかのもやもやは、なんとなく今までの食欲とは違う気がする。

 

 もしかしたら、本当に特殊な身体になってしまったのかもしれない。

 私は人間じゃないかもしれない。怪獣だ。近いうちにヒーローにやっつけられてしまう怪獣なんだ。

 

 そう、考えてみればこの箱も非常にカオス。だって腐ってる『何か』と怪獣で構成されているのだから。

 もう、地獄絵図でしかない。

 

 耳ウォッチングをしてるうちに私はなんとか長い長い昼休みの一時間を終えることができる。

 

 おにぎりを食べ終わったというのに、おなかのもやもやは止まらない。

 でもそれもまた授業が始まって、眠り始めたらいつのまにか治ってるから不思議だ。やっぱり私は怪獣なのかもしれない。

 

 毎日見ているとさすがにほとんどの耳は見終わってしまっている。こんだけ見ていたら、多少髪が長くて耳を覆っていても、髪をかきあげた瞬間に見えてしまう。だからほとんどの耳はコンプリート済みなのだ。

 

 あと二つの耳を除いて……。

 それは、私の斜め前に座っている彼女の耳だ。

 

 腐った何かで構成されているこの箱、その中でも彼女だけはどことなく違っていた。

 

 教室でノートと教科書を広げている。

 ごくごく当たり前の授業態度ではあるが、この箱の中ではすごく珍しい光景である。

 

 つっぷして眠るために私はもちろん教科書ノートなんて広げていない。私だけじゃない。みんな机の上には基本的には雑誌、マンガ、ペットボトル、ちょっとしたお菓子、そんなものが散らばっているだけで筆記用具さえおいてないのがこの箱の常だ。

 

 だって、授業をしていないのだもの。

 教師の声は聞こえないし、試験は何を持ち込んでもいい形式なので特に授業を受けなくったってまず点数を落とすことはない。

 

 ただ、出席しないと進級はできない関係で、席にはみんな座っている。携帯電話をいじろうが、雑誌やマンガを読もうが化粧をしようが、――寝てようが出席は出席なのだ。

 

 そんな中、彼女は一人だけ休み時間には次の授業のノートと教科書そして、筆記用具を並べ、授業が始まると前を向いて板書をとる。

 

 異様な光景だった。

 

 私はそんな異様な光景を薄目に見つめ、眠りにつくのである。

 

 おそらく、彼女は私が眠っている間にもちゃんとノートに授業内容をまとめているのだろう。

 

 何でなんだろう。

 

 あれだろうか。内申点をよくして大学進学をねらっているのだろうか。こんな学校でも一応指定校推薦はあるからね。

 

 もしかしたら、彼女は根っからまじめな性格なのかもしれない。

 ちゃんと校章を襟に付けてるし、スカートは短くしてないし、髪だって真っ黒だ。

 

 何か間違ってこの学校に入ってしまったのだろう。大学くらいは、ちゃんとした人が集まったところに行って欲しいもんだ。

 

 だけど、釈然としない。そのくらいまじめな彼女には、一つだけ彼女にそぐわないものがある。

 

 そして、それが彼女の耳を見えなくしている理由でもあるのだけれど――。

 

 彼女は常時、ヘッドホンをしているのだ。



 全く癖のないさらさらの黒髪。

 その上に真っ白なヘッドホンがちょこんと乗っかっている。

 なんだか、遠くから見るとまっしろな耳あてをしてるように思わせる。そんな真っ白なヘッドホン。

 

 なんだか、シロクマの耳みたいで可愛いなーとは思ってた。けど、よくよく見ると堅そうなプラスチックで彼女の耳を覆っている。

 彼女は、このシロクマをいつもつけている。

 どんな授業だろうがつけてる。

 体育だって音楽だってホームルームだって常につけてる。

 だから、彼女が人としゃべってるところを見たことがない。というより、声を発しているところを見たことがない。

 

 というのも、出席をとる時にいちいち点呼をしないし、授業中、教師に当てられて答える、なんてことをしないこの学校だから何も困ることなんてないんだけど。

 

 声を出さない。という点では私と一緒だ、と思う。

 

 だって、私は基本的に学校の中では寝ているだけだし、起きてる時はおにぎり食べてるだけだし、授業が終わったらそのまま帰るだけだし。

 もしかしたら、彼女と私は似ているのかな、と思う。まあ、似ているのかどうかすらわからないのだけど。

 だって、授業中の彼女を私は知らないのだから。

 

 ノートと教科書と筆記用具を広げただけであとは、私と同じように寝ている可能性だってある。……いや、ないか。

 

 もしかしたら、携帯をいじるくらいはするかもしれないけど、基本的には真面目に授業を受けてるのだろう。

 シロクマの中の耳はどうなってるんだろう。柔らかいのだろうか、いや、プラスチックを毎日つけているのだから堅くなってしまってるのだろうか。 傷がついてしまってるのかもしれない。

 

 もし、傷がついたら舐めてあげたい。

 

 そうしたら、どんな味がするんだろう。そして、彼女はどんな声を出すんだろう。

 昼休みが終わり、教師が教室に入る。私は、シロクマを眺めながら、また眠りについた。

 

     ◇

 

 夢を見ていた。

 

 あれ、確か私学校で寝ていたはずなのに……。

 

 学校では夢をみないはずなのに……。どうしよう。学校で夢をみちゃったらもう、どこでも眠ることができない!

 

 でも、この夢はいつもと違った。

 

 私は大きなもこもこしたものに抱きついている。

 

 それは暖かくって、安心感に満ちあふれていて……すごく気持ちいい。

 いつまでもずっとかおのもこもこしたものに抱きついていたい。そんな気がしていた。

 

 なんだろう。このもこもこしたものは――。



 シロクマだった。



 見上げると優しそうなシロクマが私を包み込んでくれている。

 

 シロクマは今まで私が夢で見た真っ黒でトゲトゲした怖いものじゃなくて、白くって、丸くって、柔らかくって、それでいて暖かい。

 

 優しい、と思った。これが優しい、って感覚なんだろう。今まで感じたことがないようなふんわりして気持ちのいい感覚。

 

 もしかして、天国ってこんな感じなのかもしれない。私は何かの拍子に死んじゃって今、天国にいるのかもしれない。

 

 シロクマは、わたあめみたいだと思った。

 白くて、ふわふわして……甘そう。



 私は目の前のシロクマにかぶりついてみた。



 シロクマは柔らかくて、そして甘い。でもわたあめと違っていつまでも口の中に残っている。

 

 シロクマをもっと食べたい。私はまた、シロクマを食べた。

 シロクマはなんだか熱くなってくるようだった。

 そして、なんだか息苦しい。

 

 私は、このシロクマが離れていってしまうのを感じた。

 

 やめて。シロクマさん行かないで!

 

 ……そうか。これは夢なんだもんね。また、私は、教室に戻るんだ。あの、箱に戻るんだ。

 

 ばいばい、シロクマさん。

 また、会えるといいな。

 

     ◇

 

 重いまぶたをなんとか開けると、やっぱりそこはいつもと同じ箱だった。

 けど、いつもと同じ……というには周りがやけに静かだった。

 そして、夢の中と同じ甘くて柔らかい感触が口に残る。

 

 あ、そうか。まだ夢の中なんだ。

 

 だって。今私は……ヘッドホンをつけた女の子とキスをしてる――。



 ヘッドホンの彼女は、シロクマと同じ味がする。

 

 暗くてよくわからないけど、キスをしている間の彼女はどうやら目をつむっているようだ。

 

 今まで、まじまじと見たことがなかったけど、女の子のまつげってこんなに愛くるしいものなんだ。

 

 いや、彼女のまつげが特別可愛いのかもしれない。

 

 お人形さんみたい……っていったらちょっと違うんだけど。何だろう。私の全てを預けてもいいような、そんな安心感が感じられる。不思議な目。

 

 彼女の息づかいが荒くなってきている。

 

 どうりで私も苦しいわけだ。私の夢にしてはリアルにできている。私の夢の演出担当さんが変わったのだろうか。

 

 彼女の荒い吐息を聞いてるとまたおなかがもやもやしてくる。

 

 やっぱり私変だ。キスしてる最中にまたおなかが空いてきてる。

 

 そうか、夢の中のキスはおなかが空くんだ。

 

 甘い、甘い、甘い。

 

 こんなにも口の中は甘いのに、なぜかおなかのもやもやは止まらない。なんなんだろう。このままもやもやが続いたら壊れて消えてしまいそう。もやもや続き、壊れて消えた、そんなシャボン玉亜種として人生を終えてしまいそうなくらいにもやもやがおなか中を攻撃してくる。

 

 やっぱ私、変だ。だってそのもやもやがたまらなく気持ちいい……。

 

 彼女のまつげが動いたのを見て、思わず私は目を閉じた。

 

 すると、私の口からシロクマはいなくなった。ただシロクマがいた残り香はまだまだ甘い。

 

 けど、その甘い匂いの基がだんだん離れていくのを感じた。

 

 やだ、行かないで――。

 

 だって、私は怪獣だから。どうしようもない怪獣だから。

 

 もっともやもやしたいんです。まだ夢から冷めたくないんです。だからお願い! キスを、やめないで……。

 

 無意識のうちに私は目を開けていたようだ。目の中のレンズはしっかりとヘッドホンの彼女をとらえていた。

 

 びっくりした顔の彼女が映し出される。そして、彼女は急に動くのをやめてしまった。

 

 あれ、この夢は一時停止機能がついてるのだろうか。総合演出さん! 止めないで! 動かしてー!

 

 すると、彼女の親指がちょっとだけ動いた気がした。もうちょっとです。がんばって動かして!

 

 なんだったら、もう一度巻き戻して、もう一度シロクマを食べさせて! もっともやもやさせてください!

 

 静かだった。あれ、ミュートモードもできるの? この夢。

 

 周りを見渡すとやっぱりここはいつもの箱で、だけど、なんだか静かで、それでいてなんだか少し寒いような気がした。

 

 外を見ると、体操着姿でランニングをしている生徒……体育の授業にしては速いペースのランニング。まるで陸上部みたいに……、ん、陸上部?

 

 部活の時間? 放課後?

 

 変な時間設定! 

 

 時計の針を確認すると現実の私だったらとっくに下校してる時間だ。

 

 ヘッドホンの彼女はまだ固まっている。もしかして私自身も一時停止されてしまっているのだろうか。

 

 とりあえず、私は彼女に向かっておじぎしてみる。

 

 オハヨウゴザイマス。

 

 すると、向こうもつられるようにお辞儀をしてきた。なんだなんだこの夢は、操作が複雑だなー、まあ私の夢なんだからそんなもんだろうけどね。

 

 とりあえず、私は彼女に話しかけてみることにする。普段は絶対人になんか話しかけることなんてできないけど、夢の中だもん。大丈夫だよね。

 

 あのさ。

 

 そう、話しかけようと「あ」と口にした瞬間、ふと思った。

 

 あれ、声ってどうやって出すんだったっけ?



 そういえば、最後に声を出したのっていつだったっけ? とっさに思い出せないレベルで発声、という行為をしていないことに今更になって気づく。

 

 そうか、ヒトって忘れる動物だったっけ。そもそも私は怪獣の前にヒトだった模様。

 

 っていうより、現実で声の出し方を忘れるのは、百歩譲ってありえるとして、夢の中までも声の出し方を忘れるってなんなんだろう。

 

 だって怪獣だって声の出し方くらいわかるよ。がおーっとかぎゃおーっとか言ってるもの。

 

 だって、そもそも今、『あいうえお』の『あ』の発声でつまづいてるってどうなんだろう。

 

 生まれたばかりの赤ちゃんだって声出せるよ? おぎゃーって。

 

 もう、私は、怪獣よりも赤ちゃんよりも劣ってしまってるんだ。私こそ腐った『何か』だ。腐った『何か』の最下層だ。

 

 腐った『何か』カースト制度の三角形があるとすれば、私はその三角形から落下してるレベルで下の存在なのかもしれない。底辺以下。

 

 せめて、底辺には乗っかっておきたい。私にだってプライドってもんがあるんだ。ミジンコほどだけど。

 

 せめて、彼女に何かを伝えないと……そうだ。怪獣も赤ちゃんもできないことで私ができることと言えば――。

 

 私は、机の中のよくわからないプリントの残骸達の中から未開封のルーズリーフを引っ張り出した。

 

 買ってから三ヶ月は経ってるのに新品同様だ。なぜなら使ってないから!

 

 そんな、まっさらさらのルーズリーフを一枚取り出し、さらに机の中からめったに使わないボールペンもサルベージ成功!

 

 ……なんて書こう。

 

 全く言葉が出てこない。やっぱ底辺以下は底辺以下だったご様子。

 

 というより、彼女に何を伝えればいいのだろう。

 

 もう、一回キスして……いやいやいや。

 

 ど変態じゃないか。怪獣な上に底辺以下の上にど変態じゃないか――。



 んーと、そもそも何で彼女は、私にキスをしてきたんだろう。

 

 ……夢の中の出来事だから。うん。それ以外ない。

 

 よくよく考えたら夢の中なんだから別になんだってかまわないだろう。

 

 夢から覚めたらいつものように彼女は机に向かっているシロクマヘッドホン少女なのだから――。

 

 だから、勝手にストーリーを作ってしまえ。

 

 えっと……私は毒リンゴを食べさせられて、それで眠ってしまったんだけれど……彼女のキスで起きた……みたいな?

 

 だめだ。怪獣な上に底辺以下の上にど変態、なのに一切ストーリーを作る才能もないらしい。

 

 誰か私に長所を!

 

 まあ、とにかくルーズリーフに書いて渡してしまえ。

 

【起こしてくれたんだよね? ありがとう】

 

 さすが夢の中! 自分の中ではうまく字が書けた!

 

 とりあえず、彼女にルーズリーフを渡す。

 

 そうしたら、また彼女は一時停止してしまう。そりゃそうだろう。意味がわからないもの。

 

 まあ、いいか。総合監督さーん。そろそろ夢を終わりにしちゃってかまいませんよー!

 

 そろそろ、現実の世界では授業も終わるだろうし、そうしたら私は下校しますんでー。

 

 ……返事がない。まるで屍のようだ。

 

 とりあえず、何か刺激を与えれば目が覚めるだろうか。

 

 とっさに私はほっぺをつねってみる。まあ、夢の中だから痛くはないんだろうけど……あれ、ちょっとした刺激が? 本当にリアルな夢じゃありませんこと? やるね! 監督!

 

 怪獣で底辺以下でど変態で……そんな私でもさすがにうっすら感づいてきた。

 

 これが夢じゃなくって、現実なんだってこと。

 

 つまり、本当の夢の中でシロクマさんとバイバイして――この教室、もとい箱に戻ってきた時にはすでに現実だったってわけで――。

 

 ってことは、彼女は本当に私と口づけを交わしたってことで。

 

 ルーズリーフを渡したのも本当のことで。

 

 たった今、一時停止した彼女が逃げるように教室を出て行ったのも……現実?

 

 誰もいない教室。ほっぺがじんわりと痛む今、この瞬間も現実だってことなのか。

 

 私自身、もう何がなんだかわからなくなった。

 

 ただ、おなかのもやもやだけはずっと健在で、私が教室を出て家を帰ってもまだ治ることはなかった。



     ◇

 

 ちっちゃい鍋に昆布でとったダシ、お豆腐、しめじ、白菜を入れて、料理酒をちょこっと入れて、ぐつぐつ煮る。

 

 まだかな、まだかなー。ってじっと待ってると白菜がしなっとしてくる。そうしたら出来上がり。

 

 ポン酢にチューブの紅葉おろしをちょっと入れていただきます。

 

「ん。おいしっ」

 

 ……あ、なんだ声出るじゃん。よかった。

 

 喉を温めたのがよかったのかもしれない。

 

「……やっぱり独り言とかでもいいから口に出していかないと忘れちゃうよな」

 

 でも、アパートの一室で一人ぶつぶつ言ってるのってなんだか変な子みたいだ。

 

 誰かに見られた日にはもうこのアパートで生きていけない。

 

 ……って別に誰に見られるわけでもないんだけど。

 

 ポン酢に浸したお豆腐をご飯の上に乗っける。

 豆腐丼。

 こっこれは! 

 

「うーまーいーぞぉー!」

 

 とどっかの料理界の偉い人並みのリアクションをしてみせる。こんなの人に見られたら本当にお嫁に行けない。

 

 豆腐ってえらいよなー。だって、こんなに柔らかくてー。ずっと噛んでると甘くなってくるし――。

 

 こうやって湯豆腐にするとあたたかくてさらにおいしいし――。

 

 柔らかくて、甘くて、あったかい。

 

 豆腐を食べている最中だというのにまたおなかがもやもやしてくる。

 

 やっぱり私のおなかは異常だ! 変なおなか!

 

 彼女の唇、舌を思い出しては、おなかをもやもやさせている。

 

「ど変態! 私、本当にど変態!」

 

 部屋で一人「変態!」と叫ぶ私。本当にどうしようもない。

 

 けど、なんでこんな変態な私とキスをしたんだろう。

 

 もう一回キスしたいな……。寝ぼけてた状態であんなに気持ちがいいのに、本気でキスをしたら私はどうなっちゃうんだろう。

 

 爆破しちゃうんじゃないだろうか。私、怪獣だし。

 

 それと耳。ますます彼女の耳が見てみたい!

 

 どんな耳なんだろう。もしかしたら、彼女にとって耳がコンプレックスだったりするのだろうか。

 

 キスして、ついでに耳をいただいちゃったりして……。

 

 もう、豆腐の味も触感もよくわからない。というより私の頭の中で耳とキスと豆腐がごっちゃになってくる。

 

 とにかく柔らかくて、甘くて、あったかい。

 

 そういうものを私は食べたい。

 

 顔がぽっぽぽっぽ熱い。豆腐ってすごいな。こんなに私を熱くさせるのだから。

 

   ◇

 

 次の日、顔がぽっぽぽっぽ熱い理由が判明した。保健室で借りた体温計には『38,50℃』の表示。

 

 あー、あれですか。風邪ですか。

 

 よく言いますもんね。居所寝すると風邪ひくって……。

 

 机の上なんて居所寝の最たるもんですもんね。

 

 そりゃ風邪ひきますわ。

 

 早退する? おうちの人は? そう、いらっしゃらないのね? じゃあ、少し寝てるといいわ。おやすみなさーい。

 

 私が何も言葉を出さないまま、保健室の先生は私をベッドに寝かせる。

 

 いっつもそうだ。私が何か言う前に物事が進んでいっちゃう。

 

 まあ、それも楽と言えば楽なんだけれど、そのせいでこっちは声の出し方を忘れているのであまりいいことではないよね。

 

 三つあるベッドで寝ているのは私一人だった。

 

 保健室なんて、サボり魔のたまり場だと思ってた。少なくとも中学の時はそうだったから。

 

 けど、この学校は調子悪かったら無理を通してまでわざわざ通学してくる生徒もいないし、常にサボってるような学校生活を送ってるので、わざわざ保健室にくる必要もないのだろう。

 

 現に他の生徒どころか、養護教諭の先生もどこかへ行ってしまった。

 

 今、保健室には私一人。

 

 保健室のベッドに横になるのは初めてで緊張する。眠らなきゃいけないのになかなか寝付けない。

 

 ああ、人目でもいいから彼女を見ておきたかった。教室に入ってすぐに、くらっ……って来たからバッグを教室においてすぐに保健室に来てしまったのだ。

 

 見たからと言ってどうなるわけでもない。人目を気にせずまた、キスをしてくるわけでもないし、耳を見せてくれるわけでもない。

 

 けど、無性になんだか彼女に会いたくなってきた。なんだろう。人に会いたいなんて思うのは生まれてから初めてだ。

 

 これが『欲求』なんだ。

 

 会いたい会いたい会いたい。キスしたいキスしたいキスしたい。

 

 祈るように頭の中でつぶやいた。

 

 眠れない。顔はぽっぽぽっぽする。頭がぐらぐらする。

 

 でも会いたい会いたい会いたい。キスしたいキスしたいキスしたい。

 

 今、キスをしたら風邪がうつってしまうだろうか。いいじゃない。二人してこのベッドに眠ってしまえばいいじゃないのー。

 

 そんなことを考えてるうちに一時間目、二時間目と過ぎていき、三時間目に突入していた。

 

 今頃、彼女は何をしているのだろう。また真面目に授業を受けているに違いない。

 

 私とキスした翌日にも彼女は平常通りにノートにペンを走らせていることだろう。

 

 彼女の頭に私が少しでも残ってくれたらいいのにな……そんなことを思っているとますます眠れない。

 

 すると静かに保健室の扉が鳴るのがわかった。

 

 なんとなくだが、彼女な気がした。

 

 真面目な彼女がなんで授業をサボってまでこの保健室に来るのかは正直わからない。

 

 ただ、彼女な気がした。

 

 勘としか言いようがなかった。

 

 彼女であってくれ、と願った。熱のせいだろうか、無性に人が恋しい。

 

 こんなこと初めてだった。だっていっつも一人だから。

 

 それが当たり前だと思ってたし、これから先もそうなんだと思ってた。

 

 だけど、今は彼女が欲しくてしょうがない。

 

 そうだったんだ。

 

 性欲ってそういうことなんだ。今、食べることよりも眠ることよりも、今彼女とキスがしたい――。

 

 しゃあ、っとカーテンを開く音と同時に私は目を閉じた。

 

 タヌキ寝入りってやつ。また、こうしてれば彼女は私と唇を重ねてくれる――かもしれない。

 

 けど、まぶたを閉じてみて気づいた。カーテンを開けたのが彼女であることがまだ決まったわけじゃないのだ。

 

 保健の先生かもしれないし、もしかしたらサボりに来た生徒がいないとも限らない。

 

 私はゆっくりと目をあける。

 

 ポケットから延びる白いコードが見えた。そのコードは耳の方に延びて……シロクマにたどりついた。

 

 彼女と目が合った。

 

 ああ、タヌキ寝入りが台無しじゃないか。

 

 相変わらず白いシロクマヘッドホン、そして癖がひとつもない髪。

 

 もう、嫌だ。我慢できない。

 

 もう一人きりは嫌なんだ。声も出せないくらい寂しいのは嫌なんだ。

 

 そう、寂しかったんだ。だけど、それを自分の中でごまかしてた。

 

 誰かとぎゅっとしたかった。だれかにぎゅっとされたかった。

 

 誰かに愛して欲しかった。

 

 自分だけを愛してくれる人が現れるのを待ってたんだ。

 

 そんな人と、私はキスがしたい――。




 彼女の――手を握る。すごく冷たくて、それでいてすべすべしてる。

 

 彼女はまた固まっているようだった。もしかしたら、私に戸惑っているのかもしれない。これ以上何かをしたら、私、嫌われるかもしれない。

 

 でも、今、この瞬間に欲しいんだ。あなたを……ください。

 

 握った手を私の胸によせる。すると、彼女もベッドの中へ入ってくる。

 

 ああ、なんだろう。すごくかわいい。

 

 いい子いい子したい。このかわいいものの頭をなでたい。

 

 ぽんっと頭に手をのっけると一瞬びくっと身体を震わせた。

 

 あ、怖がらせちゃったかな。けど、彼女のそんな表情もたまらなくかわいい。

 

 今までとは比べものにならないくらい、おなかがもやもやしてくる。

 

 あ、そうか。

 

 好きなんだ。私は……この人を。

 

 そう頭で思った瞬間にもやもやが強くなってくる。それがたまらなく気持ちいい。

 

 麻薬をやってる人とかってこんな気分なんだろうか。今まで生きてきてこんなにいい気分になったことないよ。

 

 彼女の髪の毛を指にからめてみる。彼女の吐息が漏れるのがかすかに聞こえる。

 

 もっと、彼女の声を聞きたい。

 

 そうだ。私はいじわるになっちゃえばいいんだ。彼女にいたずらをすれば、きっと彼女はかわいい声を出すに違いない。

 

 私はそっと、彼女のヘッドホンに手をかけた。



「……いぁ」

 

 蚊が鳴くよりも小さな声で彼女が鳴いた。それを聞くだけで、もやもや、もとい、私の性欲がぴくぴくしてくる。

 

 いいよ……その声。かわいいよ。もっと聞かせてくれたまえっ!

 

 ヘッドホンをとられることはひょっとしたら彼女にとって本当に嫌なことかもわからない。

 

 けどもう私はいじめっこになっていた。

 

『自分がやられて嫌なことはしないようにしよう!』とか『人を思いやる心をもとう!』とかさんざんいままで先生は言ってきたし、道徳の教科書にもいっぱい書いてあった。

 

 だけど、今だけはそんなこと考えていられない。

 

 彼女のかわいい声が聞きたいんだ! そして彼女の耳が見たいんだ!

 

 謝るから! 一生懸命謝るから!

 

 とにかく今だけは私はいじめっこになるんだ!

 

 いじめっこ……といいつつ耳を傷つけないように……そっとヘッドホンをずらす。

 

 もしかして、女の子の下着をずらす時も、もしかしたらこんな感じなのかもしれない。

 

 けど、今日はそこまでしないかもしれない。だってそんなことしたら本当に彼女は泣いてしまうから――。

 

 初めてみる彼女の耳は、きれいだった。

 

 こぶりで少しかたそうな耳たぶがたまらなくえっちい。えろきれい――。

 

「耳、きれいだね」

 

 勝手に口から声が出た。湯豆腐を食べたせいだろうか。するっと、それこそ豆腐みたいに口から言葉が出てくる。

 

「……ぁ」

 

 彼女が何か言おうとしてる。もしかしたら、彼女自身も声を出せずにいるのかもしれない。

 

 くそう。かわいいなあ。

 

 湯豆腐を食べさせてあげたいよ。

 

 だけど、今、この保健室には当然そんなものはない。

 

 じゃあ、豆腐のかわりに私が彼女を喉を潤せばいいんだ。

 

 私は初めて、自分からキスをする。

 

 そして、いじめっこな私は舌を入れてみたりする。